能代工元監督の故加藤広志氏が残した遺品や思い出の品が多数展示された一周忌追悼展(撮影・鎌田直秀)
能代工元監督の故加藤広志氏が残した遺品や思い出の品が多数展示された一周忌追悼展(撮影・鎌田直秀)

高校バスケットボール界の名門、能代工(秋田)の礎を築き、昨年3月4日に80歳で死去した故加藤広志元監督の一周忌を迎えた。秋田・能代市内では10日まで追悼展も開催。加藤監督時代の最後の主将で元日本代表の長谷川誠氏(47=現3人制日本代表アソシエイトコーチ兼B1秋田取締役)が、恩師の遺志に思いをはせた。

全国総体7連覇を含む、国内主要大会優勝33度の名将との出会いは、中3の8月。雄物川町(現横手市)の自宅訪問を受け「手を見せてみろ」。全国的には無名の少年は加藤監督から「この手なら日本代表になれる」と言われ、白の能代工Tシャツと人気シューズをもらった。入学後も技術以上に「人との関わり方を一番教えていただきました」。校内だけでなく、出会う人すべてへのあいさつは基本。「オスッて感じでしたけどね」。

国体などの遠征先には3日前入り。「その土地に染まりなさい」も教えだった。練習合間の昼食だけは金を渡され、数人ずつ違う定食店などに足を運ぶ。丸刈りのジャージー姿の「オスッ」に「クマシロ? ってどこ」と声をかけられることもあったが、自然と試合会場には「ノシロ頑張れ」の地元民が集まった。

「私にとっては育ての親。人を引きつける魅力のある方でした」。コンビニ店員、タクシー運転手、町のおばちゃんまでもが「今日はカドー先生の命日だにゃあ」。あらためて、偉大さを感じた1日だった。【鎌田直秀】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

◆鎌田直秀(かまだ・なおひで)1975年(昭50)7月8日、水戸市生まれ。土浦日大-日大農獣医学部時代には軟式野球部所属。98年入社。販売局、編集局整理部を経て、スポーツ部ではサッカー、五輪、相撲を担当。17年11月から東北総局に異動となり単身赴任。最大の楽しみは4歳の息子との留守番。

思い出の写真や盾などが多数並べられた加藤広志氏の一周忌追悼展(撮影・鎌田直秀)
思い出の写真や盾などが多数並べられた加藤広志氏の一周忌追悼展(撮影・鎌田直秀)