最初の攻撃で甲子園球場のフィールドに入ると、いつも通りショットガンでQBの位置についた。両サイドの客席へ向けて一礼し、近くにいた2人の審判にも頭を下げた。グラウンドを出入りする時にも一礼していた。アメリカンフットボールの名門日大を4年間率いた林大希。2年前に始めたルーティンだった。

18年5月、天から地に落ちる悪夢が起きた。反則問題で日大は公式戦出場停止処分となり、19年は創部初の下位リーグに降格した。試合ができたのは半年後の11月に横浜スタジアムでの練習試合。この時はフィールドを出入りするたびに一礼していた。途中交代してベンチにいた林と目が合うと、頭を下げてきた。

「覚えていたんだ」。試合後に声をかけると「川崎で初めて取材されたのは忘れません」と返された。17年10月、林が初めて背番号10をつけて日大が3連勝した時だ。その後も快進撃は止まらず。甲子園ボウルで27年ぶりの日本一となり、最年少MVPに輝いた。

目標の4連覇はあっさり消えた。根性論から合理性、上意下達の強制が自主性へと、チームは一変した。徹底練習で体に覚え込ませるのが日大の伝統だった。深夜まで及んでいた練習は2時間に。180度転換に橋詰監督と1度大げんか。ふさぎ込み、気持ちが離れた時もあった。

徐々に理解を深め、逆に引き込まれていった。今や一番尊敬できる人が橋詰監督。誰も経験のない苦難を乗り越え、フットボールをできることが喜びになり、感謝するようになった。その表れがルーティンになり、3年ぶりに甲子園にも戻ることができた。

甲子園ボウルでの前日練習で公開時は姿を隠した。試合前練習も終盤15分ほど動いただけ。出場権をつかんだ試合で右肩鎖関節靱帯(じんたい)を数カ所断裂の重傷を負った。2週間は一切練習できず。ぶっつけ本番で19回パスを投げ、10回成功で172ヤードを稼いだ。

スクリーンなどの短いパスが多かった。試合は24-42と、関学大に3年前の雪辱を許した。終盤にはロングパスも投げたが決まらなかった。パスにスピード、切れがなく、精度も欠いていた。それでもできる限りのチャレンジをして見せた。

試合翌日にSNSにはこう記した。「待ってくれてた仲間。たくさんの方の応援。そして、たくさんの方にいろいろな治療をして頂き、間違いなくいつも通りの万全な状態でプレーすることができました。本当に感謝です」。

1度は栄冠をつかんだが、その後はコロナもあって逆境の連続だった。甲子園では大阪生まれらしいもの言いは堂々としたものだった。SNSの結びには「甲子園で投げた19球。1球たりとも後悔はありません」とあった。

2度目の日本一はかなわなかったが、人間として大きな成長を感じさせた4年間だった。接点はグラウンドだけだったが、忘れられない選手の1人になった。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「We Love Sports」)

甲子園ボウル 関学大対日大 第3Q、前線にパスを出す日大QB林大(2020年12月13日)
甲子園ボウル 関学大対日大 第3Q、前線にパスを出す日大QB林大(2020年12月13日)