2020年7月24日の東京オリンピック(五輪)開幕まで200日となった6日、大会組織委員会の森喜朗会長(82)が年頭あいさつに臨んだ。

いよいよ迎えた五輪イヤーに日刊スポーツでは、毎週火曜日の紙面で新企画「東京五輪がやってくる」を始める。

その第1回は、大会運営のトップ、森会長が東京五輪・パラリンピックの森羅万象について直接語る連載「会長直伝」をスタートさせる。初回のテーマは「東京で五輪を開催する意味とは」。【取材・構成=三須一紀】

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仕事始めの森会長は快晴のもと、競技会場が最も多く立地する東京・江東区にある富岡八幡宮を参拝した。大会の成功と、世界平和へ祈りを込めた。組織委会長に就任し今月で丸6年、トップ自らの言葉で56年ぶりの東京五輪を語る。

-国際オリンピック委員会(IOC)と向き合い、6年間計画を進めてきた上で心がけてきたことは

森会長 当初、IOCから食事の食べ方や箸の上げ下げまで、何でも聞いているような話をしていたけど、そうではないと。組織委とIOCは尊敬し合う仲でなければならない。「卑屈になる必要はない」とみんなに言ってきた。毅然(きぜん)として組織委の考え方を言う。どうしても物事が解決しないなら、私のところに上げてくれればいいと、やってきた。

-IOCには25項目の経費節減案を提案するなど、五輪を持続可能なものにしようと激しくやり合った

森会長 東京大会が転機となり、五輪そのものが変わらないといけない。予算削減と言いながら、一方で高い要求をしてくる。1番は、何千人というキャパシティーの観客席を造れということ。おかしな話だよ。その国によっては、そんなに入らない種目もある。他にもIOCホテルを(高級な)オークラにしたりする。足が出た分は組織委が補■(ほてん)する。だったら安いところで我慢すればいいんだよ。ハイクラスを求めるから、そうなる。おかしな矛盾がいっぱいありますよ。挙げたらキリがない。それをやったらもっと削減できる。

五輪改革の話がさらに口を突く。東京大会でできなかった「競技種目の整理」にも言及した。

森会長 我々はそこまで踏み込めなかったけど、次の次の大会ぐらいには種目を整理しないと。今は増えていく一方。主催国が制限するやり方にすべきだと思う。それをしないで投票で決めるから、余計に膨らんでいく。アーバンスポーツが増えた一方、実施が大変だから再考した方がいい競技もある。例えば馬術は経費が大変。みんな馬を海外から持ってくるんだから。開催国で人気がなかったら、やらない選択肢があってもいい。「スクラップ・アンド・ビルド」をしていかないと。

これらの矛盾点は、計画を細部まで詰める日本で五輪を開催するからこそ、気づけた点かもしれない。

国内に目を向ける。あらためて東京で五輪を開催する意義を聞いた。

森会長 1つは平和国家としての日本を世界にあらためて知らしめる意味での「国威発揚」。もう1つは「復興」だ。東日本大震災で苦しみ、たたきに、たたかれた。そこから立ち上がる目標も必要だし、そこまで立ち上がったことを世界に見せることも必要だ。

過去の東京五輪も全て「復興」がテーマだったと振り返る。

森会長 1964年は戦後復興。原子爆弾を2つも落とされ、沖縄から北海道まで焼け野原になり、完全に日本の国が打ちのめされてしまった。それが戦後19年でこれだけやれるぞと見せる、大きな役割を果たした。1940年の幻の東京五輪は関東大震災からの復興だった。やはり「復興」というのは国民全体の力になる。だから東京1都市ではなく、日本中の力を集中させることが必要だった。

この日、年頭のあいさつでも不安定な国際情勢に触れ、五輪を通じた平和への寄与を誓った。開幕まで残り7カ月。集大成に向けラストスパートに入ったが、ここまでの道のりは平たんではなかった。(つづく)

◆森喜朗(もり・よしろう)1937年(昭12)7月14日、石川県根上町(現能美市)生まれ。早大卒。産経新聞社、議員秘書を経て69年衆院選で初当選。83年第2次中曽根内閣で文部相として初入閣した。00~01年に首相。衆院議員を14期務め、12年に国会議員から引退した。東京五輪招致委の評議会議長を務めた後、14年1月、組織委会長に就任した。

※■は土ヘンに真の旧字体