ハワイ大のキッカー松澤寛政(27)が、アメリカンフットボールの最高峰NFLのラスベガス・レイダースに電撃入団した。ドラフト外で新人契約を結んだことを25日(日本時間26日)に同大学が公式Xで発表。複数の米メディアによると、フリーエージェント(FA)で3年契約をつかんだ。
サプライズだった。米4大プロスポーツで唯一、日本勢が到達していないNFL。その26年ドラフト会議がペンシルベニア州ピッツバーグで最終日を迎え、松澤は7巡目までの全257人に名を連ねなかったが、道は開かれた。20歳になってから「独学」でアメフトを始めた超異色のプレーヤー。指名されなくても可能性はあったが、水面下では複数球団から興味を示されていたといい、ドラフト終了直後に発表された。
今後はレイダースのミニキャンプなどに参加し、勝負の夏を経て、開幕ロースター(登録枠)入りを目指す。秋のシーズンに生き残れば、日本人初のNFL選手になれる。オークランド時代に、米国最大のスポーツイベントである王座決定戦スーパーボウルで3度の制覇を誇るレイダースで、スタートラインに立った。
米国で最も高い人気を誇る競技のドラフトは、初日に歴代最多の32万人が詰めかけた。米国民が熱狂する一方、松澤が務めるキッカーは各チームに正選手が1人いれば基本は回るためドラフト外の契約が一般的。松澤の名は初日も2日目の2~3巡目も呼ばれず「指名の可能性があるとすれば」と想定されていた最終の3日目(4~7巡目)も、キッカー自体1人だけ(6巡目の全体216位)という状況だった。
体格や身体能力の差が最も大きく「日本人には無理」と言われ続けていたNFLへの扉。選択会議では開かなかったが、FA契約なら希望チームと契約できたり、複数球団の話を聞けたり、可能性を広げられる状況でもあった。
ここまでの旅路は話題にあふれていた。松澤は国内の高校や大学でトップだったわけではなく、成人するまで未経験だった。千葉・幕張総合高までサッカー部で、FWとして県8強。しかし、大学受験に2年連続で落ちて大学でも続けることを諦め、渡米して人生探しの旅をしていた際にアメフトと出合った。
「どん底」だったという19歳の秋。オークランドでレイダースの開幕戦を観戦して魅了され、突拍子もなく「NFLに入る」と決めた。帰国後、楕円(だえん)球を買って、米シカゴ発のステーキハウスでアルバイトしながら、夜の公園で蹴り込んだ。日本人未到の舞台へのチャレンジを、前例のない手段でスタート。ESPNなどがドラフト会議を前に松澤の特集を組んだように、その異例さは本場でも注目されていた。
キッカーは、敵陣のポール2本の間にボールを蹴り入れ、フィールドゴール(FG=3点)と、タッチダウン後の追加得点機会トライ・フォー・ポイント(TFP=キックは1点)を狙うポジション。専門職だ。その有名選手たちの動画をYouTubeで見ながら独学で練習し、フォームをまねした。英会話の勉強、習得も自力だった。
2年後の21年8月、オハイオ州の短大へ。語学を習得しつつ、約50の学校に自身のキック映像を送って売り込んだ。95%以上に“無視”された中、反応してくれた同校に活路を見いだした。22歳の秋に、初めて試合自体に出場した遅咲きだった。
在学中は米国の著名な指導者にも連絡を試み、年下の高校生たちと見本市で競い合った。有望株がそろうキャンプへの招待を勝ち取り、奨学金なしの一般入部で23年8月にハワイ大へ編入。25年にブレークした。開幕戦からFGを25本連続で成功させ、NCAA(全米大学体育協会)1部の最上位カテゴリーFBS(フットボール・ボウル・サブディビジョン)最高記録に並ぶ。「Tokyo Toe(東京のつま先)」の異名でも人気を博した。
シーズンを通しても全米2位のFG27本(試行29回)を決め、TPFも40回を全て成功させた。計121得点で所属地区の得点王に。最長は52ヤードを記録した。全米最高の大学生キッカーに贈られる「ルー・グローザ賞」でも、受賞こそ逃したものの最終候補3人に残っていた。26歳にして米カレッジ界で屈指のスペシャリストに成長した。
188センチ、91キロでキッカーとしては体格も見劣りしない。27歳の誕生日を迎えた年明け26年1月には、世界中から優秀なアスリートを発掘してスキルを磨くインターナショナル・プレーヤー・パスウェイ(IPP)プログラムに合格。2月には候補生が一堂に会してアピールするNFLコンバイン参加も果たし、そのまま米本土に残ってドラフト会議を待っていた。今年のIPP選手は13人中5人が会場に招待され、松澤もグリーンルームで見届けた。会議内でこそ吉報を聞けなかったが、ハワイ・ホノルルの地元紙によると、舞台裏ではファルコンズやラムズなども含めた争奪戦になっていた。
他の米4大プロスポーツは、NFL以外は日本人が到達。野球の大リーグ(MLB)は村上雅則が1964年に、バスケットボールのNBAは田臥勇太が04年に、アイスホッケーのNHLは福藤豊が07年にプレーした。野球では大谷翔平のように両リーグのMVPを獲得する選手も現れているが、アメフトだけ時計の針が動いていなかった。
これまで、守備のラインバッカー(LB)河口正史が2002年から2年連続で49ersのキャンプに参加。攻撃のワイドレシーバー(WR)木下典明も07年から2季、ファルコンズに練習生として招かれて「最もNFLに近づいた男」と期待されたものの、本契約までは勝ち取れなかった。
相撲の20年アマチュア横綱からアメフトの守備ライン(DL)に転じ、同じく初のNFL入りを目指していた花田秀虎(24)でも、IPP枠に残れなかったほどの難易度。その中で松澤がロースターに生き残ることができれば、アルバイト生活から最低年俸88万5000ドル(約1億3717万5000円)に成り上がる。何より未開のNFL開拓は、日本スポーツ史に“事件”級の快挙として刻まれる。指名の壁こそ高かったが、夢物語には、それ以上の続編が待っていた。【木下淳】
◆松澤寛政(まつざわ・かんせい)1999年(平11)1月8日生まれ、千葉県市川市出身。幕張総合高サッカー部では背番号3の主将として夏の総体、冬の選手権ともに県ベスト8。大学受験で1浪も不合格後の19年、アメフト経験者の父に勧められて2週間、米国旅行。NFLレイダース-ラムズ戦を観戦してアメフト転向を志した。21年、米オハイオ州ネルソンビルの公立2年制ホッキング大に留学。23年、ハワイ大に編入。25年の開幕戦でスタンフォード大を破る決勝FGを決めて勢いに乗り、全米2位のFG27本を成功させた。大学初のコンセンサス・オール・アメリカン(主要5選考のうち3受賞以上)。26年1月にはドラフト指名候補によるオールスター戦にも出場した。ドジャース大谷翔平投手に憧れており、背番号も同じ17。


