バドミントン男子シングルス世界ランキング1位で、東京五輪での金メダルが期待される桃田賢斗(26=NTT)が、9日までに代表インタビューに応じた。東日本大震災により、当時通っていた福島県富岡高は被災した。あれから10年、桃田は被災地の思いを背負い、日本代表として戦う。

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-震災の影響で、高校在学中に練習拠点が変わった。大変なことも多かった中で成長できた部分は

桃田 チーム富岡として再会できたことは、今考えるとすごいことだと感じる。ああいう経験をして、チームでもう1回集まった時は、チームメートというより家族みたいな感覚で、すごく雰囲気も良かった。そこから本当に濃いバドミントン生活ができたと思う。

-バドミントンへの思いに変化は

桃田 またやらせてもらえるとなった時、すごくうれしかった。そのうれしい気持ちのまま、ストイックに練習に取り組めていた。

-社会人になって福島県を訪問したことは

桃田 何度か行かせていただいた。富岡高の校舎には、2015年か16年に1回だけ入らせてもらった。想像を絶するぐらいぐちゃぐちゃになっていてショックだった。棚も机も椅子も全部倒れていて、自分が座っていた席とかもぐちゃぐちゃ。机の中身も全部出ていた。体育館の照明も全部落ちて、ガラスみたいなのが割れていて。言葉が出なかった。悲しかった。

-当時の寮がまだ残っているそうだが、見に行きたいか

桃田 いやー、ちょっと複雑。行きたい気持ちもあるけれど、見たくない気持ちも。

-5、6年前に富岡で学校や町を見たさい、復興が進んでいると感じたところは

桃田 仮設住宅ができていて、そこでたくましく生活している人がいて、すごいなと。あれだけの地震があって、津波が来て、他にもいろんなことがあったと思うけど、何から手を付けていいのか分からないような状況だったにもかかわらず少しずつ復興していって。まだ全然完全ではないとは思うけど、人の力はすごいと感じた。

-16年に賭博事件があり、その翌年に猪苗代に行った時の心境は

桃田 やはり申し訳ないという気持ちは当然あった。でもその時は、確か本多先生からも「もう1回頑張れ」みたいな言葉をいただいて。スパーリングパートナーでもいいので、何か力になりたいと思い猪苗代町に練習に行かせていただいたら、結局、自分が刺激をもらって帰るという形になった。ああいうキラキラした後輩を見ると自分に活が入る。しっかり手本となれるよう頑張らないと。

-この10年間で1番思い出すことは

桃田 インドネシアに取り残されている孤独感というのは今でも忘れない。あと直近で言いえば、(マレーシアで)事故に遭って、復帰する時にふたば未来高(旧富岡高)で練習させていただいたことは本当にエネルギーになった。バドミントンが本当に楽しいと再確認できた場所なので印象深い。

-自身にとって、富岡と猪苗代はどういう場所か

桃田 中学から6年間福島県にいて、第2のふるさとというか。僕のバドミントン人生は福島県で培われたと言っても過言ではない。自分を成長させてくれた場所かなと思う。

 

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