バドミントン男子シングルス世界ランキング1位で、東京五輪での金メダルが期待される桃田賢斗(26=NTT)が、9日までに代表インタビューに応じた。東日本大震災により、当時通っていた福島県富岡高は被災した。あれから10年、桃田は被災地の思いを背負い、日本代表として戦う。

 ◇   ◇

-震災当日はどこにいて、どういう状況で震災を知ったか

桃田 当時は高校1年の終わりくらいで、強化練習のような形でインドネシアに1人で行かせてもらっているときだった。お昼の練習中に、(現地の)チーム関係者がすごい顔をして「桃田、こっちに来い」みたいな感じでいきなり呼ばれ、テレビを見たのが最初に知ったとき。

-テレビにはどんな様子が映っていたのか

桃田 その時は仙台空港が映っていて、ほとんど(津波で)流されているような感じだった。最初は何が何だか分からない感じだったけど、地名とかは聞き取れるので、地震が起きて津波が発生したんだな、と少しずつ理解した。

-安否確認などの連絡は

桃田 日本語を少し話せる現地の方に「早くチームメートの人に電話しろ」と言われて電話したけど、回線状況が混み合いすぎていて、夜にやっとつながった。次の日に帰る予定だったけど、もしかしたらこのまま帰れないかもしれないと言われて、すごい孤独感があったのは覚えている。

-実際には帰れたのか

桃田 次の日に帰国できた。福島県には帰れず、そのまま実家(香川県)に戻った。

-実家では連日のニュースをどういう思いで見ていたか

桃田 本当にチームの人たちは大丈夫かなと。原発が爆発した時は本当にやばいんじゃないかなと、ぞっとした感じだった。

-その後の期間をどのように過ごしたのか

桃田 実家には1週間もいなかったと思う。そのまま大堀先生(現トナミ運輸女子コーチ)がトナミの関係者の方に連絡してくださって、すぐに富山で練習に参加させていただいた。

-チーム再集合は11年5月。福島県に戻る時に迷いはなかったか

桃田 一切なかった。ずっと大堀先生とは連絡を取っていて、「絶対またみんなで集まって練習できる環境を作るから待っていてくれ」と言われ、その言葉を信じていたので。他のチームに行くという迷いはなかった。

-福島県に戻ることを誰かに相談したか

桃田 いや。再開するなら大丈夫かなと。そんなに深く考えるタイプではないので。またみんなとバドミントンをしたいという気持ちだけだった。

-家族も背中を押してくれたか

桃田 親よりもじいちゃんとばあちゃんのほうが心配そうな感じはあったけど、みんな最終的には快く背中を押してくれた。

 

◆桃田賢斗(ももた・けんと)1994年(平6)9月1日、香川県三豊市生まれ。小学2年からバドミントンを始める。福島・富岡高3年の12年世界ジュニア選手権で日本人初の優勝。19年ワールドツアーで年間11勝を挙げ、東京五輪出場を確実にした。家族は両親と姉。175センチ、68キロ。

 

桃田インタビュー(2)はこちら―>

桃田インタビュー(3)はこちら―>