まだ東京五輪取材の疲れが抜けない、8月の朝だった。携帯に1本の電話が入った。「皆さんに期待してもらったのに、すみませんでした」-。男子20キロ競歩銅メダルの山西利和(25=愛知製鋼)を指導する内田隆幸コーチ(76)だった。私より長く競歩を取材してきた記者は大勢いる。その1人1人に対し、きっと連絡を入れていたのだろう。 8月5日、舞台は札幌だった。午後6時を過ぎ、山西は街の象徴「テレビ塔」を横目に表彰台へと立った。笑顔はなかった。カメラマンに促され、少しだけ目尻を下げた。19年世界選手権優勝-。その肩書を持つ限り、マークは宿命だった。序盤から海外勢が仕掛けてかき回し、山西は追わずに2番手集団の先頭を引っ張った。想定通りに追いついたが、18キロ過ぎで離された。地力の読みを誤った。

「東京で金を取るのが、日本競歩チームの使命だった。それができなかったのが残念。2番手集団を自分が引いて、勝ちきれる力があると過信してしまった」

京大卒の肩書で注目されるのは好まなかった。京都・堀川高で競歩を始め、2年時の全国高校総体で2位。その功績をたたえられた表彰の帰り、地下鉄のホームで高校の恩師に誓った。

「どうせやるなら、日本一を目指したい」-

正しい歩型を作り上げ、それを地道に繰り返す。競歩は中学時代、3000メートルで府大会に届かなかったランナーの生きがいになった。学業との両立は大前提で、1年後に誓い通りの日本一。山西家は元日、京都・二条城近くにある父方の実家に集まるのが恒例だった。京大受験を控えた高3の正月も変わらずに顔を出した。勉強は1分もせず、トランプで遊んで年下のいとこの面倒を見た。一方、ある年は夕方に「ちょっと体を動すわ」と口にし、長岡京市の自宅まで十数キロを歩いて帰ったこともあった。

高校にも、大学にも、何かを極める仲間がいた。「自分の好きなことに対して、エネルギーを注げる。別の分野かもしれないけれど、好きなことに対し、真っすぐに突き進む姿に刺激をもらっていた」。今、身を置くのは競歩の世界。「京大出身者、85年ぶり五輪メダル」という記録を、追い求めていたわけではない。

「ふがいないし、こんなもんじゃないと思う。この弱さを受け入れて、粛々と進んでいくしかない」

携わる誰もが同じ悔しさをかみしめた夏。競技を愛し、人生を懸ける男は、3年後に日本競歩界初の金メダルを目指す。【松本航】