角界の個性派代表とも言えた、元関脇金剛で前二所ノ関親方の北村正裕氏が亡くなった。12日に埼玉県内の入院先で脳梗塞で死去したと、関係者が14日に明らかにした。65歳だった。現役時は奔放な言動でホラ吹きと呼ばれ、75年名古屋場所では平幕優勝を飾った。02年に名門部屋を継承し、08年の理事就任後は広報部長などで八百長問題などにも対応。周囲もアクシデント続きの中、自らは12年10月に脳腫瘍が判明。昨年6月の早期退職後も入院が続いていた。

 響く大声と笑いが絶えなかった北村氏が、寂しくこの世を去った。12年に「よく転ぶ」と検査も異常はなかったが、10月に車で福岡入り途中で意識を失った。脳腫瘍と診断され、都内の病院で緊急手術を受け、その後はずっと入院生活で転院が続いていた。

 現役時はユニークで奔放な言動で知られた。勉強嫌いで「収支計算して選んだ」と角界入り。幕下時代にスポンジを組み合わせた「痛くないタワシ」を実用新案申請したこともある。

 一躍有名になったのは75年名古屋場所の優勝で、ホラ吹きでも本領発揮。大関貴ノ花を破ると「俺に負けるようじゃ重傷。だけど番狂わせでなく実力」。通算5勝9敗とキラーだった横綱北の湖も破り「相撲で汗をかかずライトで汗かいた」。「明日は新聞休刊日ならしゃべらない」「ナポレオンは3時間。金剛は2時間寝れば十分」の語録を残した。

 師匠二所ノ関親方(元大関佐賀ノ花)の死去で後継問題がもつれると、優勝1年後の76年秋場所前に27歳であっさり引退。次女と婚約してその母と養子縁組をすることで部屋を継ぎ、08年には理事に就任した。

 その後は貴乃花グループが一門離脱、マネジャー自殺、モンゴル人力士意識不明など騒動続き。さらに八百長問題が起き、かたくなな放駒理事長(元大関魁傑)に代わって一門外も含めて対応に努めた。理事退任後に発病し、昨年6月には65歳定年を5カ月後に控えて退職。非運の晩年となってしまった。

 ◆北村正裕(きたむら・まさひろ)旧姓・吉沢。1948年(昭23)11月18日、北海道雨竜郡一已村(現深川市)生まれ。野球で名門高から誘いも二所ノ関部屋に入門。64年夏初土俵。69年夏新十両昇進を機に金剛に改名。70年秋新入幕、72年名古屋新小結、75年秋新関脇。同年名古屋に13勝で平幕優勝した。幕内在位36場所、三賞3回、金星3個。現役時は184センチ、116キロも怪力で、得意は右前みつ、寄り。76年秋場所前に引退と同時に二所ノ関部屋を継承。13年1月に部屋を閉じ、松ケ根部屋に移籍後の昨年6月退職していた。