国内最速右腕でも、甲子園では1度も校歌を響かせることはできなかった。花巻東(岩手)の大谷翔平投手(現日本ハム)は11年夏、12年春と2季連続初戦敗退。負傷の影響から本調子で臨めず、最後の夏は県大会準決勝で160キロをマークしながら決勝で涙をのんだ。

11年 帝京戦に登板した2年の大谷
11年 帝京戦に登板した2年の大谷

 大谷にとって最初で最後の夏は、不完全燃焼に終わった。初戦はエース伊藤拓郎(元DeNA)と、後に日本ハムでチームメートとなる石川亮がバッテリーを組む帝京(東京)と対戦。3番右翼で出場し、4回からマウンドに上がったが、左太ももの故障を抱えていた影響で精彩を欠いた。

 大谷 夏の独特の雰囲気がありましたけど、緊張はそこまでなかったですね。結果は負けましたけど、1回戦から帝京と当たれてラッキーだった。強い相手とおもしろいゲームができましたから。(5-7の6回に)同点打を打てたことは印象に残っています。でも、ピッチングに関しては出来は悪かった。ケガをしていたので痛かったですし、できることなら元気な状態で投げたかったですね。

 雪辱を期して臨んだ翌春のセンバツも、1試合で聖地を去った。初戦の相手は藤浪晋太郎(現阪神)、森友哉(現西武)を擁する大阪桐蔭。超高校級右腕同士の対決で11三振を奪ったが、11四死球と制球に苦しんで終盤に打ち込まれた。

 大谷 1回戦からまさか大阪桐蔭とは思ってなかったですけど楽しかった。藤浪とやるからというだけではないけど、高校を代表する投手や打線と戦えて、すごくおもしろかったです。

11年夏1回戦と12年春1回戦のスコア
11年夏1回戦と12年春1回戦のスコア

 3年夏の県大会準決勝で160キロ、プロでも162キロをマークしながら甲子園では150キロ止まり。本調子なら最速記録更新の可能性は十分にあっただけに、心残りはあるという。

 大谷 甲子園では由規さん(仙台育英→ヤクルト)の155キロが最速だったので、超えたいなという気持ちはありました。155キロは目指していたし、超える自信もあった。結果的には(球速も試合も)勝てなかったので、心残りが90%くらいを占めています。最後の夏も甲子園には行けなかった。県大会の決勝も「僕がしっかりやっていれば…」という試合でしたから。

 投手としては2試合14回1/3で12失点と実力を発揮できなかった。それでも、投打「二刀流」と言われた男は2回に藤浪の変化球を右中間スタンドに運び、打撃で強烈な印象を残した。

 大谷 ホームランは「1本打てればいいかな」という感じでした。藤浪から打ったのも「入るかな、どうかな」と思って走っていたから、ラッキーです。でも、配球は当たっていたので良かった。あの時にできる僕の実力だったのかな。

 高校NO・1選手と言われても、甲子園では頂点に立てなかった。プロでも優勝経験はない。だからこそ、個人記録ではない「日本一」へのこだわりは強い。

12年 センバツ1回戦で大谷は藤浪(左)の大阪桐蔭に屈した
12年 センバツ1回戦で大谷は藤浪(左)の大阪桐蔭に屈した

 大谷 夏は自分たちの代では行けてないですし、春も光星学院(青森)が(明治神宮大会で)優勝しなかったら行けなかった。おまけで連れて行ってもらえた感じです。だから、運があったといえばあったし、なかったといえばなかった。それが僕に対してのプレゼントだったと思っています。僕は、ここぞという勝負どころで勝ったことがない。全国大会も小さい頃からそれほど出てないし、頂点を極めたことがないんです。だから、日本一になりたいという思いは強いですね。その中で「優勝に欠かせなかった」と言われる選手になりたいです。

 周囲から不可能とも言われた「二刀流」を貫き、昨季はプロ野球史上初の同一シーズン2ケタ勝利と2ケタ本塁打を達成した。向上心と試行錯誤があるからこそ、今があるという。

 大谷 1つ言えるのは、打つのも投げるのも好きだということ。2つともやりたいという情熱があれば、絶対にうまくなる。練習も技術的な「打つ、投げる」が別くらいで、単純に2倍練習してるわけじゃないですから。速い球を投げるには、体が大きくなきゃいけないということはない。うち(日本ハム)にいる谷元さんは、身長は一番小さい(167センチ)ですけど150キロ以上の球を投げますし。大事なのは、自分の長所を生かした投げ方を早く見つけることだと思うんです。いろんなことを試したもの勝ち。多く失敗すればするほど、多くの発見があるわけじゃないですか。僕は、失敗しかしてないですよ(苦笑い)。【鹿野雄太】