強い横綱だった。強すぎたために、「憎らしい」とまで言われた。北海道有珠郡生まれの北の湖は、新十両、新入幕、新小結と、次々と最年少記録をつくり、1974年(昭49)7月、21歳2カ月で史上最年少横綱となった。無口でいちずな北の湖よりも、人気は華やかな貴ノ花、輪島らに集中しがちだったが、そんなことはおかまいなし、ひたすらに勝ち続けた。横綱在位数63場所、横綱勝数670、連続勝ち越し50場所はいずれも歴代1位。不滅の大横綱を3回連載します。

 圧倒的な強さを誇った大鵬が引退(71年)した後、相撲人気を支えたのは、初の「外国人力士」高見山、初代若乃花の弟でハンサムな貴ノ花、初の学士横綱輪島だった。勝負以上に、背景のサクセスストーリーや雰囲気に、ファンはひかれた。そこに割って入った本格派が、アンコ型の北の湖だった。

 証言 元横綱の輪島大士氏(47=学生援護会最高顧問) 「これはすごいやつが出てきたと思った。何しろ腰が重かった。重いだけでなく弾力性があった。体形に似合わず、運動神経が抜群だった」。

74年(昭49)7月場所。横綱昇進後7場所目の輪島が12勝2敗、東の正大関北の湖が13勝1敗で千秋楽を迎えた。北の湖には2場所連続優勝がかかっていた。本割、優勝決定戦とも輪島の左下手投げに屈したが、場所後、21歳2カ月で横綱に推挙された。

 証言 現二子山親方(45=元大関貴ノ花) 「北の湖の体の大きさがうらやましいと思ったことはないが、自分はケガが多く内臓が弱かった。それを治すのが精いっぱいだった」。

 SFアニメ映画「宇宙戦艦ヤマト」が大ヒット、ピンクレディー旋風、カラオケも大流行の兆しを見せていた。学園紛争期の反動もあった。遊ぶ大学生が文化の中心を占め始めた。米車リンカーンを乗り回し有名人との交際を好んだ輪島は、時代が生んだ「現代っ子横綱」だった。北の湖は対照的だった。

 証言 当時の相撲担当、中出水勲氏(53=日刊スポーツ出版社編集長) 「支度部屋での輪島は本番前にも気軽に話しかけたし、大学の運動選手がそのままいるという感じだった。北の湖はいるだけで周りの空気がピリピリした」。

二人が千秋楽結びの一番で当たった回数22は、大鵬・柏戸の21回を抜く最多記録で、75年(昭50)5月場所から78年(昭53)1月場所までは15場所連続だった。

 証言 立呼び出しの(飯田)寛吉さん(64) 「あの二人の千秋楽結びの一番は、気持ちの盛り上がり、りりしさ、迫力などで独特のムードがあった。緊張感が呼び出す私にも伝わってきた」。

 輪島の「黄金の左」に苦杯することが多かったが、77年(昭52)初場所以後は変わった。輪島の左は右の絞り、おっつけの強さがあってこそのものだと気がついた。

証言 輪島氏 「私の黄金の左は、マスコミが書き立てた伝説。本当は握力でも右の方が上だ。彼も最初はなぜ左(の投げ)を食うのか分からなかったんじゃないかな。それがばれたんだ」。

 北の湖自身の「最も印象に残る相撲」は78年(昭53)7月場所14日目。ここまで互いに13戦全勝、北の湖は徹底した持久戦法に出た。2分52秒で水入り。再開後は右上手投げの連発で振り回し、輪島が右からの気力とスタミナを失って上手を取りにきたところを、左下手を引き付け寄り切った。輪島30歳、北の湖25歳の年齢差がはっきり出た。

 証言 北の湖親方 「輪島関は強かったが、自分も横綱というプライドがあった。負けたときは次は絶対返す、という気持ちだった。強い競争相手がいたからこそ、20回以上も優勝できたと思う」。

 輪島氏は引退後、一時プロレスに転向するが、現在はアメリカンフットボール総監督として第3の道を歩いている。対戦成績は北の湖の21勝23敗だった。

【特別取材班】

(つづく)

(1995年7月22日付日刊スポーツから)