黒沢明監督(享年88)の右腕として知られた、スクリプター(記録係)の野上照代さん(89)が泣いていた。仲代達矢(83)がたった2秒間の出演シーンをじっと見入っていた。

 黒沢監督の代表作「七人の侍」が最新のデジタルリマスター版として62年ぶりによみがえり、先日、都内で特別試写会が行われた。

 3時間27分、29万7407コマを1コマずつスキャンして修正した映像と音声は驚くほどクリアだった。人気作品として無数に回された後のフィルムを見てきた世代なので、公開時の映像の具合は知らない。が、きっとその頃よりむしろ濃淡のメリハリがついて見やすくなっているのではないかと思う。

 野上さんも「黒沢さんに見せたかった。きっと喜ぶはずだから」と感慨深げだった。

 農民出身で「七人」に加わる菊千代を演じた三船敏郎さん(享年77)は「山犬のような男」という役柄もあって「セリフが聞き取りにくい」と一部から不評を買った。確かにこれまでのバージョンでは、何度聞いても意味が伝わりにくい部分があったことは否めない。だが、リマスター版ではむしろ滑舌がいいくらいに聞こえた。野上さんは「三船ちゃんにも聞かせてあげたかった」と続けた。

 野上さんによると「撮影中、黒沢監督は三船ちゃんにほとんど注文を付けなかった」そうだ。荒々しく、コミカルな菊千代のキャラクターの細部は三船さん自身が作り込んだようだ。

 「明日のシーンでは鼻水を垂らしましょうか?」とユニークな提案をすることもあった。「本当に鼻水を垂らせるのか?」と黒沢監督はいぶかったが、本番当日にはしっかりと垂らして見せたそうだ。

 撮影環境は過酷だった。三船さんが半裸で臨んだクライマックスの合戦シーンは、消防車8台が放水する豪雨の設定だ。日程は大幅に遅れ、8月の予定が翌年2月になったそうだから、垂らしたくなくても鼻水が垂れてきそうな状況もあっただろう。

 それでも、先の提案シーンで実際に三船さんが鼻水を垂らしたカットは「やっぱり汚いから止めた」との黒沢監督の判断で、あっさり本編から除外されている。

 その三船さんも19年前に亡くなった。メインキャストの中で存命なのは、妻を奪われ、野武士に強い恨みを抱く農民、利吉にふんした土屋嘉男(89)くらいである。俳優座で2期後輩の仲代は「メインに抜てきされた土屋さんが当時はうらやましくて仕方なかった」という。

 仲代自身も序盤に登場する通りすがりの浪人役でわずか2秒とはいえ、映画初出演を果たした。「初めてチョンマゲを結って朝9時から撮影に参加したんですが、時代劇の経験がないから歩き方が決まらない。黒沢さんから『何だ、あいつの歩き方は』と怒られて、昼休みをはさんで午後の3時ですよOKが出たのは」と黒沢演出の厳しさを振り返った。これが後に「用心棒」(61年)の準主演から「影武者」(80年)「乱」(85年)の主演につながって行くのだから貴重な経験だったと言えるだろう。

 野上さんは「仲代ちゃんのは怒られたうちに入らない」という。「七人の侍」の撮影で黒沢監督の標的になったのは稲葉義男さん(享年77)だった。腕は立つが穏やかで良く笑う侍、五郎兵衛役である。「笑い方を徹底的にやられていた。怒られて笑うんだから難しい」と野上さんは苦笑いする。

 黒沢監督はターゲットを決めると徹底的に絞り上げるところがあった。1人を怒鳴り続けることで現場を引き締める。逆に女優陣にはいつも優しい。これで引き締めたり、弛めたり現場の空気を調節するのだ。巧みな方法ではあるが、標的にされた俳優はたまらない。

 「乱」の現場では井川比佐志(79)が斬り合いシーンで徹底的にダメ出しをされていた。「もうダメだ。昼飯にしよう」と監督が他のスタッフ、キャストとともに現場を去った後、必死の表情で素振りを繰り返す井川の姿を目撃したことがある。張り詰めた空気は目を背けたくなるほどだった。

 壮年から晩年まで、黒沢演出の厳しさは一貫している。中でも「七人の侍」を撮った44歳は脂ののりきった時期だった。野上さんは言う。「監督自身が『2度とあれは撮れない』と言っていた。完璧に出来た映画なんですよ」。

 リマスター版は10月8日から「午前十時の映画祭7」で上映される。【相原斎】