リオデジャネイロ五輪が幕を閉じた。担当していたサッカー男子日本代表は、1勝1分け1敗の勝ち点4で1次リーグ敗退。その主因となった黒星発進(初戦ナイジェリア戦)は4-5の激しい打ち合いだった。日本の五輪代表にとって5失点は48年ぶり、4得点は史上最多と派手に散り、第2戦コロンビアはDF藤春の歴史的オウンゴールもあって2-2、最終戦は欧州王者スウェーデン相手に意地の1勝(1-0)を挙げた。状態が上向いていただけに敗退は残念だった。


 リオ世代(93~96年生まれ)にとって最後の世代別代表が終わり、A代表しか世界と戦う舞台がなくなった。彼らの経験を18年W杯ロシア大会、22年W杯カタール大会へ、どう生かすのか。日本協会としても、チーム作りに関するノウハウと課題を20年東京五輪へ、どうつなげるのか。手倉森誠監督(48)の去就が注目されている。


 五輪代表監督の大会後の流失が、かねて課題とされてきたからだ。96年のアトランタ五輪以降、A代表の指揮官を兼ねていた00年シドニー五輪のトルシエ監督を除く全員が、五輪後に日本協会を離れている。


 ▼アトランタ五輪・西野朗監督(2勝1敗で1次リーグ敗退) 五輪終了翌々月の96年9月30日付で退任。93年から日立(現J1柏)に籍を置いたまま日本協会に出向したが、五輪直前の6月に日立とプロ契約を結んでいた。「(出向した年時に発足した)Jリーグの監督になりたい」と言い、まずは12月に柏のヘッドコーチ就任した。

 ※現在は日本協会の技術委員長。


 ▼アテネ五輪・山本昌邦監督(1勝2敗で1次リーグ敗退) 西野氏と同じく五輪翌々月の04年10月31日付で退任。日本協会との契約を残していたが、J監督への転身を明言。契約更新期限は11月中も、川淵三郎キャプテンに相談して10月に契約解除。11月からJ1磐田監督に。

 ※現在は日本協会の副技術委員長。


 ▼北京五輪・反町康治監督(3敗で1次リーグ敗退) 五輪翌月の08年9月30日までという契約通り満了。退任後は欧州サッカー視察などを経て12月にJ2湘南監督に転身した。

 ※現在はJ2松本監督。


 ▼ロンドン五輪・関塚隆監督(2勝1分けで1次リーグ突破。4位) 五輪終了月の12年8月31日までという契約を全う。好成績を残し、兼任していたA代表コーチに戻る道も模索したが、どうやらザッケローニ監督との交渉が不調に終わったようだ。契約満了前日の退任会見で「やれることはやり尽くした」と言って協会を離れた。同年はJクラブからの複数オファーを断り、翌13年5月からJ1磐田監督を務めた。

 ※現在はフリー。今年7月にJ2千葉監督を解任。


 残留が正解とは言えないが、五輪監督は日本協会と決別してきた歴史がある。再び4年のサイクルが終わり、手倉森氏に「番」が回ってきた。過去の4人と違うのは、既に契約が満了しているのに日本協会を離れていない、という不思議な状態にあること。契約は前回の関塚氏と同じく五輪当月末の8月31日まで。「まずは休んでほしい」と言われているものの、宙に浮いた立場で9月を迎え、1日のW杯ロシア大会アジア最終予選の初戦UAE戦(埼玉)は一応、所属なしという立場で視察していた。


 その理由は、A代表ハリルホジッチ監督に、ある判断が委ねられているから。手倉森氏は25日に田嶋幸三会長、西野技術委員長と会談。昨年10月まで兼任していたA代表コーチへの復帰を勧められた。が、決定するのは雇い主の協会ではなく、ハリルホジッチ監督だという。翌26日に取材対応した手倉森氏は「協会から『A代表に推薦する』と言われた」と明かし、遠征先のタイから戻った後に話し合うことになった。


 田嶋会長や西野技術委員長は「突破が難しいと言われていた五輪最終予選で優勝に導いた」と、口をそろえて手倉森氏を評価する。しかし、あくまで提示は「推薦」だ。もちろん、1次リーグ敗退では難しい状況だろうし、現場に組閣を押しつけられない気持ちも分かる。しかし、ハリルホジッチ監督から「テグは必要ない」と言われれば、協会は「ということなので…」と受け入れるのだろうか。


 「五輪の経験を無駄にしないため、日本人指導者を養成するため、A代表コーチに戻ってもらう」

 「選手と違って、まだまだ海外進出する日本人監督が少ない。提携国に派遣させてもらう」

 「いやいや、五輪で結果を残せなかった。契約を更新するつもりはない。Jリーグで頑張ってくれ」


 これらは架空のコメントだが、何でもいい。日本協会として、意思ある「決定」はできなかったのか。ハリルホジッチ監督が難色を示しても、手倉森氏を必要と感じたなら、ねじ込めばいい。必要と思わなければ切ればいい。そうこうするうちに、タイ戦の結果次第ではハリルホジッチ監督に進退問題が浮上しそうな情勢になってきた。そうなれば、コーチ人事どころではなくなるが…。【木下淳】


 ◆木下淳(きのした・じゅん)1980年(昭55)9月7日、長野県飯田市生まれ。早大4年時にアメフットの甲子園ボウル出場。04年入社。文化社会部、東北総局、整理部を経て13年秋からスポーツ部。手倉森ジャパンが発足した14年1月のU-22(22歳以下)アジア選手権(オマーン)からリオ五輪まで密着した。