昨秋に大分で引退したサッカー元日本代表FWの高松大樹氏(35)が2月の大分市議選への出馬を表明した。現役時代は東京での1年を挟んで、大分ではJ1、J2、J3の3カテゴリーでプレーし、実働17年。主将も務め「ミスタートリニータ」と呼ばれ、地元に愛された。J2昇格を決めた昨秋の引退後に「やりきりました。これからのことはもう少し考えます」と電話で報告を受け、年明けに政界進出を知った。「サッカー界から政治の世界への転身は、厳しいものがあるとは覚悟の上です」。自身のブログにつづった文面からは緊張感がうかがえた。大分支局時代に取材したのは10年以上前。環境の変化にすぐ適応していた印象がある。

 アテネ五輪に出場し、日本代表歴もあるが、多々良学園(現高川学園、山口)時代に右サイドバックからFWにコンバートされたのが転機。大差がついた試合中の出来事で、それ以降FWだった。プロ入り後は、大分の小林監督(現清水監督)が「とにかく節目で活躍してくれる」と語っていた。「自分の監督代行初戦だったり、(現大分銀行ドームの)こけら落としや、初めてJ1に昇格して勝ったG大阪戦も、すべて得点していたね」。物事の変わり目、節目で力を出せる選手だった。

 高松氏は当初、世代別の代表には無縁で、初めて呼ばれたのは21歳。アテネ五輪を目指すU-22代表だった。顔見知りの選手は少なく、初遠征の行き先はエジプト。「不安です。知ってる人が誰もいないし、取材で一緒に行ってくれませんか」。大分空港に向かう、今は運航終了となったホーバーフェリー乗り場でため息をついていた。ところが、現地でのヨルダン戦に途中出場1分で得点し、そのまま代表に定着。帰国すると、ホテルで部屋が一緒だったG大阪のMF児玉新(現G大阪コーチ)から梅干し、仙台のFW佐藤寿人(現名古屋)にふりかけを分けてもらっただとか、うれしそうに笑っていた。同世代だから仲間とうち解けるのにそう時間はかからない。それ以上に、先の小林監督は「調和型。組織や環境にスッと入っていける。ものおじしない性格もいい」と適応力を評価していた。先輩や後輩にいじられる一方、主将として厳しい助言もできた。高校時代とプロでも取材したが、今でも、季節の変わり目にふと「元気ですか」と電話が鳴る。気配りの良さも人を引きつけていた。

 「人として、サッカーでも育ててもらった大分市に恩返ししたい」「スポーツ教育で子どもたちに夢を与えるなど地域に貢献したい」。今回の出馬会見での表情はさすがに硬く、第2の人生への希望と不安が同居しているように見えたが、持ち前の適応力でやっていくのだろう。

 冬と春がせめぎ合う三寒四温である。季節の変わり目に風邪をひきやすかった高松氏はこの時期、周囲を冷や冷やさせながら、開幕に向かっていた。Jリーグは2月25日、あと1カ月ほどで開幕。「蹴春」到来に時を合わせ、元Jリーガーも新しいピッチに飛び出していく。【押谷謙爾】


 ◆押谷謙爾(おしたに・けんじ)96年1月西部本社入社。総務部、レース部、報道部、大分支局、野球部などを経て、16年7月から東京本社の東京五輪パラリンピック・スポーツ部。滋賀県栗東市出身。