コロナ禍であっても長年の悲願成就への思いは、変わらず強かった。ドジャース中島陽介アスレチックトレーナー(50)は昨季、ワールドシリーズ制覇の歓喜の輪に加わった。「ただただ、やっと勝ったなと」。インターンシップで2年、マイナーで10年、メジャーで6年、米国の野球界に飛び込んでから18年。ようやく頂点にたどり着いた。

異例ずくめの昨年だけでなく、これまでもつらい時期を何度も乗り越えてきた。ドジャースのルーキーリーグでフルタイムで働き始めた05年、脳梗塞で父が倒れた。「ビザの申請中で、日本へ帰国したらアメリカに戻れないかもしれなかった。母親に『帰ってくるな』と」。父の最期より、米国に残ることを選択した。「あの時が一番つらかった」。

苦難の連続で、マイナー時代にはさまざまな経験をしてきた。日本でも活躍したある選手が、当時はドジャース傘下の3Aに在籍していた。ある試合で、ベテラン捕手と大げんかとなった。「投手コーチに『耳が落ちてるから、拾った方がいいよ』って。あれは大変だった」。けんか中に同捕手にかまれ、引きちぎられた相手の選手の耳が地面に落ちていた。「耳の処理の仕方なんて学校で習わない」。今では笑い話だ。

ぬれたガーゼに包み、ビニールの袋に氷を入れて保存し、即座に病院の緊急医療室に持参した。「深夜3時くらいまで耳の専門用語とか調べて。ノイローゼになりそうになった」。他にも、金曜の夜遅くに歯科医の診察を要望した頑固なキューバ出身の選手を納得させるため、球団絡みの問題にまで発展したこともあった。「あの時は辞めようかなと思った」。精神的に弱ったことが何度もあった。

それでも、原点回帰が前に進む原動力となった。「野球が好きだった。野球の仕事につくために、野球の世界で働きたいと思って、アメリカに来たから。野球の世界に入ったら、やっぱり1番になりたいと」。

17年、18年は2年連続でワールドシリーズで敗退した。「自分の子供たちには『2番目は一番の敗者だよ』と教えていた。だから、子供たちに『敗者だ、敗者』って」。3度目の出場でようやく勝ち取った栄冠。球場に駆けつけていた夫人と子供たちから、バックネット裏で声をかけられた。「やっと勝ったね」。最後は家族皆で笑顔になった。

野球だけでなく、生活が激変した中で1つの夢を実現した。今季はコロナ禍でのシーズン2年目となるが「去年とは違い、長いシーズンになりそうなので、コロナ問題と闘いながら頑張ります」。希望を抱き、前に進む。【斎藤庸裕】(つづく)