捕手として不世出の足跡を残した古田。もう1つ、球界を守り、次代につなげるという大きな役割を果たしている。

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ヤクルト古田敦也は、1998年(平10)に広島正田耕三の後を継ぎ、第4代労組プロ野球選手会の会長に就任した。「ある程度トッププレーヤーになったら『球界全体のことを考えていかないといけない』って思ってました。活動を嫌がる選手も多いんですがね」。これからのプロ野球、そこに入って来る子供たちのためと思い、前向きに取り組んでいた。

球界を揺るがすニュースが駆けめぐったのは04年6月13日。日本経済新聞が「オリックスと近鉄が合併する」とスクープした。同日、もう1つの合併が画策されていることが判明。球界に10球団での1リーグ制へと向かう流れが、急に生まれた。

「最初は身売りだと思った。そしたら身売りじゃなくて合併だって…つまり縮小に向けての再編に向かうみたいだってことが分かってきた」

新聞紙面には連日、合併関連のニュースが躍った。6月末、ライブドアの堀江貴文社長が球団買収に名乗りを上げたが一蹴された。各球団の理事による実行委員会では何も決められず、説明を求めていた選手会には、もどかしさが募っていた。7月8日、古田はオーナーと直接話をする機会をもらいたいか? と聞かれ「そうですね。いいですね。開かれた感じでいいことだと思いますよ」と答えた。

この発言を伝え聞いた巨人渡辺恒雄オーナーが口を滑らせる。「分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。たかがといっても立派な選手もいるけどね。オーナーと対等に話をするなんて協約上根拠は1つもないよ」。古田の発言を誤解していた部分もあっただろう。ただ「たかが選手」という言葉は独り歩きした。球界再編の世論は、選手会を後押しする風向きに変わりだした。

古田会長は、野球ファンにできるだけ丁寧に説明したいという姿勢を貫いた。「今みたいにインターネットが普及していない時代でしたし、僕らが何を言っても伝えるすべがあまりなかった時代と思うんですよ。2004年って」。そう言うとスマホを手に取りながら続けた。「今ならこうして自分で発信しますよ。そういう時代じゃないんで。積極的に動いたし、動かなくてはいけないと思ってました。時間がないので」。

平成中期は情報伝達の過渡期にあった。伝言ゲームが「たかが選手が」を生んだか。今の時代ならば、そう言われることはなかったかもしれない。(敬称略=つづく)【竹内智信】