04年9月17日の深夜。古田敦也は泣いた。フジテレビ「すぽると」に生出演し、ハンカチを握りしめながら涙をこぼした。10時間に及ぶ経営者側との話し合いが決裂し、長い球史で初めてストライキが決まった。交渉会場だった新高輪プリンスホテルから乗った車の中から泣いていた。

「ファンを含めて本当にご迷惑をかけた。ここで妥協して『10球団になるのを止められませんでした』となったら、ファンは失望したと思う。10球団になったら『ファンなんてやめた』っていう人が増えたと、僕は思います」

球界のために正しいことをしている。信念のもと、腹をくくって取り組んだ結果のストだった。

球団の「買い手がいない」という説明に納得がいかなかったのもある。選手会には、手を挙げてくれた企業や自治体の情報が入っていた。「仙台にしても長野にしても宮崎にしても球場もパイもある」。本当に縮小してしまっていいのか? 問いかけ続けた。ファンも12球団維持に向けての署名を集めるなど、選手会と世論は同じ方向を向き続けた。「8球団の方が繁栄していると言う人もいるかも分からないけど、僕たちはそう思わない。だから腹をくくってやるしかない。そんな感じですね」。

04年9月18日と19日、プレーボールのかからない日が、ついに訪れた。野球をやらないことをファンは支持してくれるのだろうか? 一抹の不安は杞憂(きゆう)に終わる。翌週の世論調査で12球団あった方がいいという声が大勢を占めた。「ありがたかったですね。迷惑をかけたので…」。今でも、当時を思い出すと感謝の気持ちでいっぱいになる。

選手会が経営サイドに新規参入を認めさせたのは、9月23日だった。名古屋市内での会議は長引き、ナゴヤドームで行われた試合の開始に間に合わなかった。若松勉監督から「そっちの方をしっかりやってから来ればいい」と配慮してもらった。万が一の場合には二塁手の土橋勝征がマスクをかぶるウルトラCまで準備してくれた。9回になんとか間に合い、代打で左前打を放つと、敵味方関係なくスタンドのファンから古田コールが注がれた。

スーツをまとっては球界を守り抜き、ユニホームを着ては3割6厘、24本塁打でチームを2位に導いた。その姿は「戦う選手会長」と呼ばれた。(敬称略=つづく)【竹内智信】