板東と魚津・村椿輝雄の投げ合いは、0-0のまま最終の延長18回に突入した。両チームのほとんどのナインが、18回終了で同点のままなら再試合になるルールを知らなかったという。

 村椿は「ずっと投げるもんだと思っていました。16回ぐらいに部長から18回で打ち切りだということを聞きました」。徳島商捕手の大宮秀吉も「ルールのことは知らなかった」と振り返った。

 この熱戦から4カ月前の4月28日。春季四国大会で決勝となった高松商戦の板東は延長25回を投げ抜いた。高松商のエース石川陽造と投げ合って0-2で敗れたが、板東は26個の三振を奪った。午後1時にプレーボールのゲームが終わった瞬間、時計の針は同5時27分を指していた。

 板東 同級生たちが京都、奈良に出掛けた修学旅行から帰ってくる日だったようです。大阪の天保山港から船に乗ったときにラジオ中継をやってたみたいですが、それが小松島港に着いて、みんなが自宅に帰ってもまだ試合をやってたと言いますから、相当のロングゲームだったんですね。

 前々日の4月26日、板東は高知市営球場で行われた高知商戦で森光正吉、山崎武昭と延長16回を投げ合って、21三振を奪っていた。

 今春のセンバツで、福岡大大濠の三浦銀二が、延長15回完投&中1日の再試合完投を果たし、話題を集めた。板東の時代は今から約60年前の1958年(昭33)のこと。板東は高知商戦で16回、高松商戦で25回。中1日で計41イニングを投げた。この事態を重くみた全国高等学校野球連盟(現在の日本高野連)は、発育途上の高校生の健康管理を考慮し、同点のまま18回を終わっても勝負がつかない場合は試合打ち切り、引き分け再試合のルール改正に踏み切った。

 四国大会の決勝戦で板東は262球、高松商の石川は308球を投げた。名監督若宮誠一のもとで育った石川はその後、立教大を経て東映入りし、63年に16勝を挙げる逸材だった。

 石川 板東はすごいピッチャーでした。お互い打者を牛耳るタイプでしたが、それでも彼はずばぬけていました。当時の四国は、高松商、徳島商、松山商、高知商の「4商」といって、どこかが優勝していた時代です。今とは違って200、300球投げるのが当たり前でしたし、うちも勝って当たり前だったから、疲れなんて言ってられなかったですよ。あの試合によって高校野球が延長18回引き分け再試合になるルール変更に貢献できたのは光栄に思っております。

 高松商に0-2で敗れた徳島商は試合後、汽車を乗り継いで1日がかりで地元に戻ったが、そのまま午後9時ごろまで練習が続いたのだという。(敬称略=つづく)

【寺尾博和】

(2017年5月5日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)