全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第7弾は、小倉中、小倉、小倉北のエースとして夏2連覇を果たした福嶋一雄さん(86=日本野球連盟九州地区連盟副会長)。連覇達成の1948年(昭23)の夏は、甲子園全5試合完封勝利という快投でした。夏3連覇できず甲子園の土を初めて持ち帰ったともされているレジェンド、福嶋氏の高校時代を7回の連載でお届けします。

    ◇   ◇   ◇   

 「ああ、もうここへは戻ってこれないな」

 試合後、三塁側ベンチから通路に向かう途中、福嶋はそう思ったという。バックネット前から見たスコアボードに現実が記されていた。1949年(昭24)8月17日。夏の甲子園準々決勝で倉敷工に6-7で敗れた。夏3連覇はならなかった。そして…

 福嶋 無意識でした。足元にあった土を拾ってポケットに入れていたんですね。あとで審判の方に教えてもらって気づきました。

 「2日後」の8月19日。大会審判副委員長だった長浜俊三からの速達で、福嶋は土の存在を知ることになる。思いも寄らぬ手紙には、ひとにぎりの土に詰まった甲子園の思い出や得たことを今後の人生でも生かしてほしい、という激励の思いが記されていた。そこで、ユニホームをひっくり返したところ、土が落ちてきたのだ。

 「無意識」になるほど失意の敗戦だった。倉敷工戦は延長10回の末のサヨナラ負け。その瞬間、福嶋はレフトを守っていた。甲子園登板21試合目。試合の最後までマウンドにいなかったのは、初めてだった。先発し、同点の9回裏に無死満塁の危機を招き、投手交代を告げられていた。

 苦戦は覚悟していた。投げすぎが災いした。夏前に右肘を故障。すでに地方大会で肘は悲鳴を上げていた。毎日、はり治療に通った。試合にはりの先生を招き、イニングを終えるたび、はりを打ってもらったこともある。右肘は伸びない状態。甲子園では力が入らなくなった。倉敷工戦は変化球も投げられなくなった。本来のスリークオーターではなく、時にアンダースローで投げた。痛みが走り、こわごわ投げるしかなかったからだ。ラッキーゾーンが導入された大会。初めて1試合2本塁打も浴びた。そして、幕切れはレフトで見守っていた。

 福嶋 最後にマウンドにいられなかったのはつらかった。甲子園ではずっとマウンドを守ってきましたので。感傷的でしたね。だから無意識に土をつかんだのかもしれません。

 悔しさと甲子園を去る寂しさが胸中を渦巻いた。ぼうぜんとする中でとったのが、後に「第1号」といわれるようになる甲子園の土を持って帰る行動である。この「第1号」については諸説あるが、長浜とのやりとりを含め、強烈なエピソードになったのは確かである。

 福嶋ら小倉北(現小倉)一行は、敗退「2日後」に故郷に帰っている。敗戦当日の夜行列車に乗れば、翌日故郷に着いているはずだが、1日のタイムラグがある。福嶋らのあまりの失望ぶりを見かね、当時の野球部長、山中長一郎が京都観光に1日充てるよう配慮したからである。

 福嶋 今なら宿舎で洗濯するでしょうが、当時は家に帰るまで洗濯できなかったからね。

 その1日がなく、すぐに帰路に就いていれば、長浜の速達が届く前にユニホームは洗われ、土は流されていたかもしれない。その貴重な土を入れたゴムの木の鉢植えは鉢こそ変わったが68年後の今でも玄関に置いてある。

 偶然もあったが、いずれにせよ、福嶋が特別な存在でなければ「第1号」として注目されなかったに違いない。テレビ中継もなかった時代。07年6月21日の朝日新聞、ニッポン人脈記の欄で、福嶋にまつわる記事が掲載されている。「やがてラジオから、再開された甲子園の熱戦が流れてくる。(中略)連投する福嶋は『ミラクル投法』と呼ばれた。阿久はとりこになった。『フック、シマアーッ』と叫び、木ぎれに毛糸をまきつけた球で友達とキャッチボールをした」。阿久とは、野球を愛した作詞家、阿久悠である。福嶋は甲子園が生んだヒーローだった。

 戦後初のセンバツ、47年春に初めて甲子園のマウンドに立ち、準優勝。その夏、九州勢初の優勝。そして翌48年は夏2連覇を全5試合完封で飾った。

 福嶋 普通では教えてくれないものを甲子園は教えてくれた。そこに立つ人間に大きなプラスになる。甲子園はそんなところです。

 血のにじむ努力。初めて深紅の大優勝旗を九州の地にもたらした福嶋の歩んだ道は、そんな言葉も決して大げさではないものだった。(敬称略=つづく)【浦田由紀夫】


 ◆福嶋一雄(ふくしま・かずお)1931年(昭6)1月6日、福岡県出身。学制改革以前、当時5年制だった旧制中学制度のもと、小倉中3年時の46年夏の大会でメンバー入りしたが、登板なし。その後、小倉中-小倉-小倉北(現小倉)で47年春~49年夏の甲子園に登板し、春夏通算17勝(8完封)。47年夏には九州勢として初優勝。48年夏は39年嶋清一(海草中)に並ぶ5完封、45イニング連続無失点の大会タイ記録を達成して2連覇を果たした。卒業後は早大、八幡製鉄(現新日鉄住金)でプレー。引退後、アマ球界の要職を歴任し、13年1月に野球殿堂入りを果たした。現役時代は177センチ、60キロ。

(2017年6月14日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)