1947年(昭22)の夏は7年ぶりの甲子園開催だった。大会初日は8月13日。当時の新聞には、観衆は6万人を数えたことが記されている。その大観衆の中、開会式直後のゲームで1回表のマウンドに立ったのが、福嶋である。

 その年のセンバツで準優勝の原動力となった福嶋の快投は続いた。1回戦で神戸一中を9-3で下すと、2回戦の桐生中で福嶋は完封。準々決勝も1失点完投。準決勝の成田中は延長戦に突入したが、1失点で10回完投した。いよいよ、決勝のときがきた。8月19日。相手は岐阜商だった。

 福嶋は2回に2本の二塁打を浴びるなど3失点。だが、打線が2点差で迎えた6回に一挙4得点。実は小倉中(現小倉)にとって、6回は2回戦、準々決勝で決勝点を挙げるなど「ラッキーイニング」だった。

 福嶋 みんな不思議と言っていたが、僕はそうは思わない。6回は先発投手がつらくなるところ。みんなでここだと攻めていたんです。

 福嶋は球威で押すタイプではなく、打者との駆け引きや制球力で打たせて取るタイプ。相手の狙いを読み、尻上がりに調子を上げていくだけにチャンスはあると踏んでいた。6-3の逆転勝利。終わってみれば、岐阜商を6安打に抑えていた。試合時間は、わずか1時間12分。今も春夏通じて甲子園の最短試合時間記録である。それだけではないだろうが、いかに福嶋の投球のテンポが良かったか。そして、狙い通り、悲願達成の瞬間はやってきたのだ。

 マウンドで大喜び…ではなかった。九州勢初の全国制覇にもかかわらず、ガッツポーズをつくる者もいなかった。「負けたチームのことを考えろ」。北九州大会決勝前夜、選手を荷台に乗せたトラックが事故に遭い、選手をかばって右腕を骨折した野球部長、山中長一郎が常々口にしていた言葉を選手は実践したのである。当時主将の宮崎康之と福嶋が言う。

 宮崎 今でもテレビでヒット打ってもガッツポーズしているのを見ると、どうかなと思うんですよね。

 福嶋 スポーツ選手の前に、僕たちは学生だと思っていました。教育としての野球でしたから。

 福嶋は高校野球から得たものを、こう振り返った。

 福嶋 勝つことの大事さですね。みんなが自信を持つことができる。これは大きなものですよ。当時は苦しいことばかり。明日を生きるための力になりました。すぐに負けてしまってはダメ。悔しさだけが残る。勝負ごとは勝たないとダメなんですよ。

 勝つためにどんな手段をとってもいい、ということではない。相手に勝つための努力、研究など課題克服への力がつくと身をもって知っている。そして勝利の自信が、さらに力となっていくことも。

 悲願の優勝を決めた2日後の8月21日。初めて関門海峡を渡った優勝旗が、故郷の小倉に到着した。人の群れだった。パレードも行われた。多くの行事を終え、福嶋らが向かった先は、負傷のため甲子園に行けなかった山中部長が入院していた大学病院の病室だったという。(敬称略=つづく)【浦田由紀夫】

(2017年6月16日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)