全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第9弾は、1982年(昭57)夏に池田(徳島)を初優勝に導いた畠山準氏(53)です。当時監督を務めていた蔦文也さん(享年77)にとっても初Vの夏でした。現在DeNAの球団職員である畠山氏の高校時代を10回の連載でお届けします。

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 名は準。「ひとし」と読む。徳島県立池田高校3年生当時の畠山は、身長が180センチ、体重は73キロあった。しかし、64年6月初夏に誕生した際は「2500グラムの未熟児だった」という。小さく生まれた赤ちゃんに、祖父が準と名付けた。

 「うちの家がみんな名は1文字で、父が匠(たくみ)、兄は学と書いてさとると読みます。父の兄弟などで2文字の人が早く死んでいることもあったらしく、祖父はぼくの名も1文字にすると決めていたのだそうです」

 元気に育てとの願いが込められた「準」だったが、畠山が池田に入学する前から、この名に物言いをつけた人物がいる。野球部監督の蔦文也だった。蔦は「名前を変えんか」と迫ったことさえあるという。畠山は「先生(蔦)は、けっこう験を担ぎますから」と、思い出して苦笑いを浮かべる。

 蔦は74年センバツで準優勝。79年夏にも準優勝。特に79年夏は、春夏甲子園連覇を成し遂げる箕島(和歌山)に対し、8回表まで3-2でリードしていながら、優勝できなかった。蔦は何度も、この試合の逆転負けについて語っている。

 「私は勝負するときによく言うんですが、鍛錬千日之行、勝負一瞬之行。勝負は一瞬にして決まるわけです。タイミングの読みというのが非常に大切だと思っております。そして勝負というのはやり直しがきかないんです、高校野球の場合はね。昭和54年(79年夏)は優勝戦まで出て、途中まで勝っておったんです」

 決勝戦。初回に1点ずつ奪い合い、池田は4、5回に1点ずつ加点。箕島は6回裏に1点を返していた。あと2イニング、リードを保てば悲願が成就するところまできていたが…。


 「そろそろ優勝の蔦になれるか、優勝の池田高校になれるかと思ったところ、箕島が8回にワンアウト二塁となったんですよ。ここでショートゴロになって、これはアウトにできるという状況で、ショートが三塁へ進もうとしたランナーを刺そうと送球したらその背中に当たった。そこからランナーが生還し、一瞬にして同点と、こういうことでした。やり直してくれちゅうたって、やり直してくれなんだですが」

 蔦が生涯忘れることがなかったこの場面。追いついた箕島はさらに1点を奪って、これが決勝点。試合は3-4で終わった。

 「私は甲子園に出るたびによく言われておったんです、あれは準優勝の蔦じゃと。名前が悪い、つた・ふみや、と言うて、二三也(に、さん、なり)と書いとる、と」。蔦にすれば「準」はもうたくさんなのだ。ところが、80年に期待されて入学してきた大型右投手の畠山の名が、準だった。

 「二三也」と「準」は苦戦した。甲子園へ、うまくいけば選手は高1の夏から高3の夏まで5度行くことができる。畠山の大活躍があれば3、4回は、という気持ちが蔦にはあった。だが、実際はなかなか甲子園出場が果たせない。念願の日本一、全国優勝は夢のまた夢。ようやく甲子園への切符をつかんだのは82年夏。畠山は3年生になっていた。

 蔦と畠山の師弟にとって最初で最後の甲子園となったあの夏。決勝前夜の8月19日に、宿舎の網引旅館で畠山は監督の部屋に1人だけ呼ばれた。「二三也」と「準」は、優勝へひとつの誓いを立てた。その内容は後に触れるが、決勝は広島商に大勝した。徳島勢が初めてつかんだ深紅の大旗、夏の甲子園優勝。池田の勝ち上がり方は、衝撃の連続だった。(敬称略=つづく)

【宇佐見英治】

 ◆畠山準(はたやま・ひとし)1964年(昭39)6月11日、徳島生まれ。82年、池田3年夏の甲子園で全国制覇の立役者に。同年ドラフト1位で南海(後にダイエー、現ソフトバンク)入団。1年目の83年に1軍デビュー。2年目の84年には規定投球回に到達し5勝。その後は故障や体調不良に悩まされ、88年野手に転向。90年ダイエーを戦力外となり、大洋(現DeNA)移籍。92年から3年連続2桁本塁打を放つなど主力打者に。99年引退。通算投手成績は55試合、6勝18敗、防御率4・74。打撃成績は862試合、483安打、57本塁打、240打点、打率2割5分5厘。現役時代は180センチ、80キロ。右投げ右打ち。

(2017年7月3日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)