牛島和彦と香川の新2年生バッテリーを擁した浪商は、1978年(昭53)のセンバツで、高松商(香川)に1回戦負けを喫した。夏に向かって練習を再開させた時期に「ボイコット事件」は起きた。

 大阪の浪商といえば「泣く子も黙る」といわれたほど伝統的に厳しかった。浪商に、近大付、興国、北陽、大鉄(現阪南大高)、PL学園、明星は「私学7強」と称された。なかでも浪商は「野球とケンカは日本一」と言われた時代もあった。

 浪商の最寄り駅は私鉄で京都方面に向かう茨木市駅だったが、当時は早朝の梅田駅を出発する先頭から2番目の車両は、決まってそり込みを入れて学ランを着た野球部員であふれた。他の乗客は避けるようになったという。

 今ではあり得ないが、上級生からのしごきは定評だった。グラウンドの隣には京都・亀岡市の水源から南下する安威川が流れていた。これを“浪商温泉”といって、寒い時期でも下級生は肩までつからされた。しごきはこれにとどまらず、上級生に対する不満がエスカレートする。ついに新2年生部員が練習をボイコットする強硬姿勢にでた。

 牛島 うちにはいろいろ伝統がありましたからね(笑い)。練習がきついのと叱られるのは慣れてましたが、理不尽なことって、いっぱいあるじゃないですか。先輩から補欠はいらんなどと言われたようです。ぼくはレギュラー組でしたが、上級生が(卒業して)いなくなったら、同級生と一緒にやらなくちゃいけない。だからそこに入ってあげないとかわいそうだと思って、ぼくも一緒にグラウンドを避けたんです。でもちょっと(香川と)疎遠になったのはあそこかもしれませんね。

 2年生部員がそろって練習参加を放棄したが、ただ1人、グラウンドで上級生たちと合流した。それが香川だった。なぜ香川だけが練習に参加する行動にでたのか理由は定かではない。最終的に牛島らが上級生に掛け合って収拾した。

 香川と大体大付中、浪商と同じコースをたどり、現在は昌和興産に勤める寺山雅秀は中学時代から、まだスマートだった香川をよく知る人物だ。

 寺山 中学生の頃から野球理論は卓越していました。雨天で練習が室内になって廊下で素振りをしていたときです。私のスイングをみた香川が「バットのヘッドが下がってるで」と言うんです。当時の中学レベルでその意味が分かる人はいなかった。すでに他人にアドバイスができた。香川は中学2年から4番捕手です。体重70キロぐらいでスリムだったんです。そのうち食欲旺盛になった。間食も激しくなって、休み時間は炭酸のサイダー、学校帰りは駅前の阪急そばでした(笑い)。

 浪商体育科の体重測定は自己申告制だった。香川の体重は公称92キロ。今でも寺山はその驚くべき光景を覚えていた。

 寺山 当時、体重計のはかりは100キロまでしかなかった。その針が1周して跳ね返ったんですよ…。(敬称略=つづく)

【寺尾博和】

(2017年7月27日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)