全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第12弾は、甲子園のアイドル、坂本佳一さん(55)です。東邦(愛知)の1年生エースとして、準優勝した1977年(昭52)夏の甲子園で強烈なインパクトを残しました。「バンビ」の愛称で親しまれた坂本さんの高校時代を7回の連載でお届けします。


1977年夏の甲子園、フィーバーが加熱し女性ファンに囲まれる東邦・坂本
1977年夏の甲子園、フィーバーが加熱し女性ファンに囲まれる東邦・坂本

 背番号1を背負った1年生エースのけなげな姿が、胸を打った。77年夏の甲子園。大会登録では身長176センチ、体重62キロ。スリムな坂本に誰もが熱狂した。

 投手を始めて4カ月あまり。1年生右腕は、先輩野手陣にもり立てられ、初戦の高松商(香川)戦から決勝の東洋大姫路(兵庫)戦まで、投げ続けた。全5試合完投。甲子園で1年生投手による5試合以上の完投は、坂本を最後に出ていない。そして幕切れは悲劇的だった。決勝戦でサヨナラ本塁打を浴び、頂点を逃した。

 坂本 高校野球(をできる期間)は約2年5カ月あります。(自分の場合)華々しい思い出は突発的でした。強烈な3週間。最初にいい思いをさせてもらった。その後は苦しい思いをしてきた。いろんなモノを受け入れながらやっていかないといけない高校生活だった。

 大会中、日刊スポーツには「バンビ」の3文字はまだ見られない。大会後についた愛称だからだ。ファンレターが殺到し、家の電話は鳴りっぱなし。アイドルの誕生だった。

 元祖アイドル的存在の三沢(青森)太田幸司は68年夏、69年春夏と3大会連続出場した。鹿児島実・定岡正二は2年生だった73年夏に登板こそなかったが甲子園に出場し、74年夏も帰ってきた。東海大相模(神奈川)原辰徳は1年生だった74年夏から3年連続夏出場、センバツにも1度出場した。だが、彼らに続くアイドル、坂本が再び甲子園のマウンドに立つことはなかった。坂本が出場したのは1年夏の甲子園のみ。そこから2年間の苦悩はのちに触れるが、「強烈な3週間」は多くの人の心に刻まれた。「バンビ会」が開催されたように-。

 それは14年末だった。大阪市内に77年9月の日韓親善試合の選抜メンバーが集合。東洋大姫路、東邦、大鉄(大阪、現阪南大高)、今治西(愛媛)の夏4強からメンバー16人が選抜されたのだが、そのうち10人以上が集まったという。もちろん、唯一の1年生メンバーだった坂本もいた。安井浩二が振り返る。

 安井 そのとき(会の名前を)バンビ会にしようって、みんなでなったんです。なんといっても、あの年は坂本が一番の注目選手。それが分かりやすいだろう、と。

 安井は決勝戦の延長10回にサヨナラ本塁打。東洋大姫路の主将として、坂本の大会通算663球目を打ち砕いた。安井は現在大阪でエスエスケイ事業推進本部副本部長を務めるが、名古屋勤務時代もあり、名古屋市に本社を置く岡谷鋼機で働く坂本とも連絡を取り合ってきた。「バンビ会」で37年ぶりの再会を果たした人もいた。東洋大姫路のエースで、77年ドラフト1位で阪急入りした松本正志。現在はオリックスで用具担当を務めている。

 松本 (選抜メンバー)16人中、12、13人が来てたよ。みんな「あの時はバンビの大会やったな」と言ってよ。

 頂点にはたどり着けなかったが、その夏は坂本が主役だった。

 坂本 そんなふうに言ってくれるのはありがたいですよね。

 当時の選手自身、そして高校野球ファンの心をつかんだ3週間。それは坂本の入学式当日の行動から幕を開けた。(敬称略=つづく)

【宮崎えり子】


 ◆坂本佳一(さかもと・よしかず)1961年(昭36)11月9日生まれ、愛知県出身。東邦入学後、1年生エースとして77年夏の甲子園に出場。決勝までチームを引き上げ、スリムな体形でマウンドを守る姿に「バンビ」というニックネームがついた。決勝ではサヨナラ本塁打を浴びて敗れ、以後は甲子園出場はない。卒業後は法大、日本鋼管でプレーした。

(2017年8月5日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)