九州で春夏通じて甲子園での優勝がないのは、宮崎県だけ-。そんな屈辱を味わっている宮崎県だが、1人の怪物を送り出した。01年夏の甲子園。日南学園のエース寺原隼人(当時3年=現ソフトバンク)は、ネット裏のスピードガンで158キロをマーク。ポテンシャルの高さを示し、宮崎の高校野球のレベルの高さを全国に知らしめた。

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 高3の夏、右腕のハートは燃えていた。日南学園を背負って甲子園にやってきた怪物・寺原が、怪物であることを証明した。01年夏、2回戦の玉野光南(岡山)戦だった。5回から登板。6回にネット裏のプロスカウトのスピードガン表示で98マイル(約157・68キロ)をマーク(球場計測で154キロ)した。本格的に球場での球速計測が始まった80年以降で、スカウト計測を含めて寺原の98マイルが最高となっている。

 寺原 自分は松坂(大輔=現中日)さんを追いかけて甲子園に出たいと思っていた。だから甲子園のマウンドで勝つことでなく、スピードにこだわった。松坂さんに比べ、どんなに頑張っても投手としてトータルの完成度はかなわない。勝負できるとしたら球速だった。だからうれしかった。

 甲子園は自分のアピールの場であり、勝負の場だった。当然、チームの成績は重要だ。しかし寺原はそこが到達点ではなかった。

 寺原 松坂さんの存在でプロになりたいと思った。入学時132キロしか出せなかった自分が、ガムシャラに練習したら158キロが出せるようになった。高校時代は成長時代なんです。それを体感できた。もちろん、もっと高校時代にこうしておけば良かったという悔いはあるけど、スピードという自分の特長は見せられた。だからプロにも行けたと思ってる。

 秋のドラフト。4球団競合となり、抽選の結果、当時ダイエー監督だった王貞治(現ソフトバンク球団会長)が引いた。王のサインが刻まれた運命のクジはまだ自宅に保管されている。

 寺原 宮崎県の高校が甲子園で優勝してないのは知っている。頑張ってほしいのはあるけど、勝つだけが目標ではない。これからの高校生には自分の特長を生かす練習をしてほしい。打者だったら長打力とか。高校生は未完成だし、伸びしろがある。これだけは負けないっていうようなものを持って、頑張ってもらいたいんです。

 宮崎県では夏は13年に延岡学園が準優勝。センバツは84年に都城が4強に進んだ。これが春夏の最高成績で、屈辱の結果に悔しい思いはある。プロ野球選手などで構成される宮崎県人会が、毎年オフには少年野球教室を行い、地元の野球界、スポーツ界に貢献している。

 寺原 もちろん、宮崎県から優勝チームは出てほしいけど、誰か1人でも宮崎をアピールできる選手が出てきてほしい。

 自らの右腕で全国の注目を集めた寺原。宮崎から「第2の寺原」登場を願っている。(敬称略)【浦田由紀夫】

 ◆宮崎の夏甲子園 通算52勝59敗。優勝0回、準V1回。最多出場=都城、日南学園8回。

4球団競合の結果、寺原の交渉権を獲得したダイエー王監督(右から2人目)
4球団競合の結果、寺原の交渉権を獲得したダイエー王監督(右から2人目)