はきはきと語り掛けるようだった。1984年(昭59)8月8日、第66回夏の甲子園大会開会式。選手宣誓は、福井商主将の坪井久晃が行った。

「宣誓。我々、選手一同は第66回全国高等学校野球選手権大会に臨み、若人の夢を炎と燃やし、力強く、たくましく、甲子園から大いなる未来へ向かって、正々堂々、戦い抜くことを誓います」

時間にすれば、約26秒。この宣誓が、1929年(昭4)から続いてきた甲子園の選手宣誓の歴史を大きく変えることになる。

文章だけでは伝わりにくいが、2つの点で画期的だった。まずは文言。それまでは、多少の違いはあれ「スポーツマン精神にのっとり、正々堂々、戦うことを誓います」といった紋切り型が続いていた。次に口調。中継局のアナウンサーは「いつもの張り裂けるような宣誓とは違って、自然な声で落ち着いた分かりやすい宣誓でした」と好意的にコメントした。それまでは、シンプルな一文を絶叫するのが、甲子園における選手宣誓の定番だった。

その慣習を坪井はがらりと変えた。主催者の朝日新聞は、当日の夕刊で宣誓の全文を掲載。珍しいことだった。地元の福井新聞に至っては「評判になった独創的な選手宣誓」と誇らしげに報じている。

今では、災害、五輪、世紀の変わり目など、球児が時事に触れながら宣誓することは珍しくない。そうなったのも、84年の宣誓がきっかけだった。なぜ、坪井はあのような宣誓をしたのだろう。福井へ向かった。

 --◇--◇--

ニコニコと笑いながら、坪井久晃(51)は記者を迎えてくれた。

坪井 30年以上、たちましたからね。もう取材に来る人はいないと思ってました。ははは。プレーとは違いますから。恥ずかしいです。

郷里で保険会社に勤めている。34年前に思いをはせ、告白した。

坪井 あの宣誓は…、勘違いだったんです。

何が勘違いだったのか。その前に、どうやって選手宣誓の学校を決めていたかを説明しよう。現在、夏は立候補制だが、当時は抽選だった。予備抽選(本抽選を引く順番を決める抽選)で1番を引いた学校が、宣誓をすることになっていた。ちなみに、予備抽選を引く順番は抽選会場への到着順だ。さらに、初戦で近隣同士が対戦するのを防ぐため、参加全校が東と西に分けられ、初戦は東西対決の形を取った。選手宣誓は東西が隔年で受け持ち、84年は西の番。福井県は西だった。つまり、坪井は予備抽選で西の1番を引いたのだ。

坪井 数字が書いてある丸い板を係の人に渡したら、ニヤッと笑ったんです。番号を見ずに渡したんですが、ピンと来ましたね。「あ、引いた」と。

実は、福井をたつ前、「宣誓したら目立つな」なんてことを部員と話していた。主将だが控えの坪井にとって、宣誓は絶好の晴れ舞台。だから、本当に1番を引き当て「うれしい気持ちもあった」という。ところが、そんな気持ちは、すぐに吹っ飛んだ。抽選が終わり、大会関係者から「明日の開会式の予行演習に、どんな宣誓をするか紙に書いてきて下さい」と言われたからだ。これが、勘違いの始まりだった。(敬称略=つづく)

【古川真弥】

(2018年4月14日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)