3年の夏。早実は西東京大会で苦戦している。

初戦の昭和戦は9回に敵失で勝ち越し、3-2で辛勝した。日大鶴ケ丘との準決勝は9回サヨナラ勝ち。日大三との決勝は延長11回の末にサヨナラ勝ちを収めた。

ただ、甲子園に入ると優位な試合が続いた。準々決勝の日大山形戦は8回逆転だったが、準決勝までの5試合すべてで3点差以上をつけている。そして迎えた、駒大苫小牧との決勝戦だった。

06年8月20日。最初の決勝戦は、両チームとも8回に1得点しただけ。斎藤と田中将大の投げ合いは、延長15回を終えても勝負がつかず引き分け再試合になった。先発した斎藤は178球、3回途中から登板した田中は165球を投げていた。決勝の再試合は、69年の松山商-三沢戦以来37年ぶりのことだった。

試合後、早実ナインは西宮市の宿舎、水明荘に戻った。斎藤は、疲労回復のために酸素カプセルに入るよう促された。そこから出ると、普段からお世話になっている鍼灸(しんきゅう)師の脇坂美加がいた。前夜の治療後に帰京した脇坂だったが、再試合が決まると、すぐに飛んで戻ってくれた。監督の和泉実をはじめ、周囲の人々は斎藤のコンディションを心配していた。

だが、斎藤には少し違う感覚があった。

斎藤 疲れてなくはないけど、意外と大丈夫だなぁって。鹿児島工との準決勝で榎下(陽大=現日本ハム)と試合をして、そのあたりから感覚をつかんでいたんです。軽く投げてもベース板のボールは強いというイメージ。だからバランスピッチングというか、そういう感じで投げていました。

斎藤は同年のセンバツでも、引き分け再試合を経験している。上田剛史(現ヤクルト)を擁する関西戦で、231球を投げた翌日にリリーフで103球を投げて勝利した。だが、続く準々決勝の横浜戦は先発、4番手での再登板を合わせて計6回8安打6失点と打ち込まれた。

斎藤 センバツでは、再試合の後の横浜戦はヘロヘロだった。その時の方が疲れは感じていました。

治療を終えた脇坂も、登板できるとみた。監督の和泉に「あと1試合に投げたからって、これで彼の野球人生がダメになるってことはないと思いますよ」と告げている。

周囲の心配をよそに、斎藤の記憶に鮮明なのは夕食だった。試合前夜は験を担いで必ず「トンカツ」が出されていた。この日もそうだった。

斎藤 でも、カツがいつもより少なかったんですよ。2、3切れくらいで。

宿舎にとっても予想外の再試合で、対応しきれなかったのだろう。

斎藤 何かおもしろいなと思ってみてました。暑かったし、ちょうどいい量でしたよ。

和泉は、斎藤の先発起用を再試合当日まで迷っていた。

和泉 朝一番で会ったら、斎藤は「大丈夫ですよ」と平然としていた。それを見て決めました。

朝食会場で選手たちに告げた。

「メシを食べながらでいい。ちょっと耳だけ貸してくれ。今日も先発に斎藤を立てる。みんなは絶対に守れ。気合入れていくぞ」

和泉には珍しく、選手にゲキを飛ばした。

和泉 再試合を戦って疲れるのは、投手だけじゃないんです。センバツの横浜戦では野手が全然動かなかった。

斎藤ではなく、チーム全体に向けたゲキだった。これで選手の雰囲気が変わった。もちろん、2日続けて決勝戦に先発する斎藤の気持ちも高ぶっていた。

(敬称略=つづく)【本間翼】

(2017年9月17日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)