中西にとって最後の夏がやって来た。1951年(昭26)8月14日。高松一の初戦の相手は岡山東で「4番三塁」に座った。相手バッテリーは秋山登-土井淳。ともに明大を経て、大洋ホエールズ(現DeNA)入りする逸材だった。

当時の一般紙には中西主将が「この春、倉敷球場でやった時は4-5で負けたが、必ず雪辱してみせます。全員当たりも調子に乗ってますし、硬くなりさえしなければ絶対大丈夫です」とコメントしている。選手が将棋を楽しみ、武庫川沿いを散歩し、リラックスしている様子も掲載された。

この第33回大会では、甲子園球場に内野スタンドを覆う巨大屋根「鉄傘」が復活する。以前からのものは、戦局の深刻化で金属供出のため撤去されていた。阪神電鉄が約8300万円を投じてジュラルミン製の屋根を設置。銀傘と呼ばれるようになる銀屋根に「ウォー」という歓声が反響した。

秋山を擁した岡山東は、開校以来初めての甲子園出場で沸いた。当初はスリークオーターだったが、1つ上でアンダースローだった先輩の影響で、やや横手を下げて投げる速球派。その女房役だった土井は、後に大洋監督、阪神でヘッドコーチなどを務めた。

土井 すでに高校球界ではすごいのがいると聞いてました。初めて中西をみたのは大会前の練習試合です。小太りだけど、体が柔らかく、足も速くてね。そのときは我々が勝った。その年のセンバツ準優勝校の鳴尾(兵庫)にも勝ったので自信をもったんでしょうね。甲子園の高松一戦も「いけるぞ!」となった。でも初めての甲子園で、秋山も四球、四球で、みんながあがってしまった。

高松一は3回に秋山を攻め立て7点を奪うなど序盤から引き離した。中西が大会1号を記録したのは、11-3の7回だ。左中間を割るランニング本塁打は、中西にとって記念すべき甲子園1号。土井はそのシーンを鮮明に覚えている。

土井 秋山のカーブが外角にきた。それを中西は踏み込んで強引に引っ張った。けた外れでした。

岡山東は3-12で敗退した。しかし、実は、土井の脳裏に強烈に焼き付いているのは、大会後の島根・出雲での招待試合だった。2本塁打を含む4打数4安打だった中西の豪打を再び目の当たりにした。

土井 私たちのゲーム前、高松一が地元の高校と対戦しているのを見たんです。ホームランの1本は、スタンド後方の2階建ての家に飛び込んだ。まさに「怪物」です。その遠征は旅館が一緒で、中西は庭で裸になってスイングをしてるんです。すごい迫力でした。

初戦を突破した高松一だったが、中1日おいて行われた福島商戦を前に、中西に異常が発生する。

(敬称略=つづく)【寺尾博和】

(2017年10月30日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)