「勉学は東大、野球は甲子園」

1955年(昭30)に開学したPL学園の建学の精神である。パーフェクトリバティー(PL)教団の2代目教主・御木徳近(みき・とくちか、故人)は、野球が好きなことでも有名な宗教家だった。70年夏の甲子園決勝で東海大相模に敗れた時、偶然にも東京・銀座のとある店で、東海大の総長だった松前重義(故人)と会った。2人の会話は社交辞令で終わったが、負けず嫌いな御木は、すぐさまPL野球部でスカウトを務める井元(いのもと)俊秀(81)に「東海大相模に勝てるチームを作れ」と厳命した。

和歌山で、型破りな有望選手として有名だった西田真二は、その東海大相模とPLの争奪戦になった。「西田詣で」を続ける井元は、西田の父嘉平(81)と野球談議に花が咲き、いわゆる「ウマが合う仲」となった。

西田が河西中学3年の秋。PL進学に手応えを持ち始めた井元は、野球の能力を高く評価する一方で、その型破りな性格が気になっていた。そこで、教団トップの御木の指示を仰いだ。

西田真次(後に改名して現在は真二)、木戸克彦。

井元は西田と堺市の浜寺中学の有望捕手、木戸(現阪神球団本部部長)の2人の名前を書き出し、御木の前に差し出した。

「今からすぐに行きなさい」

時刻は午後8時半。和歌山へは高速道路もない時代で、学校がある大阪・富田林からすぐに向かっても2時間はかかった。しかし、御木の指令である。井元が西田の自宅に到着したのは、午後11時になろうとしていた。

教団トップの御木が「何か事を興(おこ)す名前」と直感した西田。西田の気持ちはその時、東海大相模に傾いていたというが、御木の指令を受けて深夜に自宅まで駆けつけてきた井元、そしてPL挙げての熱意に折れ、ついにPL進学を決意した。

西田 同じPL進学なら早い方がいいと思って、中3の3学期にPL学園中学に転校した。でも、親のありがたさが身に染みました。富田林の冬は寒いんですが、起床が朝6時。すぐに家に帰りたくなりましたよ。

76年4月。西田はPL学園高に入学し、硬式野球部に入った。西田は時折、お付きを伴って練習を見学する御木が教団のトップであることを知るが、「そのオーラに驚いた」という。そして、豪放磊落(らいらく)な性格の男が、「この人に喜んでもらいたい」との思いを抱き、数々の伝説を作り上げていく。

(敬称略=つづく)【井坂善行】

(2017年11月23日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)

PL学園の旧「研志寮」。西田もここに入寮した
PL学園の旧「研志寮」。西田もここに入寮した