小倉全由は、本気で大好きな野球との決別を決意した。88年秋、成績不振を理由に辞表を提出した。87年春のセンバツで準優勝を達成。全国に名が定着し始めたその夏、東東京大会で修徳にコールド負け。周囲の期待が増す中、失意の敗戦に小倉への風当たりは厳しかった。

小倉 大人の汚さというか、学校は小倉という人間じゃなく、勝ち負けしか見ていなかった。どうして? とも思ったし、人間不信にもなりかけた。

87年春のセンバツ準優勝時の主将だった寺島一男は校長室を訪れ、涙を流した。「どうして、監督が辞めるんですか」。教え子の心の叫びも届かず、小倉は自らが鍛え上げた野球部から身を引いた。

自暴自棄になりかけた小倉は、当時の教頭からこう声を掛けられた。「野球、野球というんじゃなく、今度は若手で学校を良くしてくれないか」。野球から完全に離れ、小倉は32歳で初めて、クラス担任を任された。

当初、野球部監督を辞任した小倉に周囲は冷たかった。「お金を懐に入れて、辞めたらしい」など、耳を疑うようなデマも流された。街を歩けば「何もしてないのに、自分のことを悪く言ってるんじゃないか」と勘繰った。一時は「人に会いたくないから」と、最寄りの新小岩駅から学校へは裏道で通勤。人が大好きだった男が人を恐れた。

小倉 野球なんか2度とやるもんかと思った。未練があると思われるのも嫌だったし、全てを変えた。

髪形はスポーツ刈りをやめ、長髪にパーマをかけた。2年目には普通科の学年主任を任され、夏休みには連日、娘2人と千葉の実家近くの海で海水浴。グアムなど、海外旅行にも出掛けた。グラウンドには一切、顔は出さなかったが、休み明け、誰よりも日焼けしていたのは小倉だった。

小倉 今思えば、娘や家族とずっと一緒にいられたのはこの時だけですね。

家族との日々は、新たな発見も生んだ。小1だった長女の水泳教室を見学した時、泳げなかった娘が先生の丁寧な指導と優しい言葉で泳ぎをマスターした。小倉の指導方針は厳しく接するのが基本だったが、「自分の言葉でダメにした選手がいたのかも」と気付かされた。

すっかり担任が板につき始めた4年目の秋、小倉は突然、監督復帰を打診された。娘や家族との日々は「楽しかった」が、野球人の血が騒いだ。

小倉 2度とやるもんかって言ってたのにね。でも、やってくれと言われたら野球バカの血がね。

だが、自らが情熱を傾けた野球部は、あの時とは違った。寮は廊下の壁が抜け落ち、部屋の中もボロボロ。突然の交代劇に選手も疑心暗鬼で、冷たい視線が突き刺さった。小倉はその全てを受け入れ、自分のカラーを徐々に浸透させた。

ウオーミングアップから一緒に汗を流し、草刈りや整備も一緒になって、取り組んだ。当時のメンバーで現在、関東第一で監督を務める米沢貴光も小倉の人柄にほれた1人だった。

米沢 監督が座ることなんてなかった。常に一緒になってやってくれて、目線を合わせてくれた。チームも明るくなったし、野球を楽しくやらせてもらった。

復帰から2年後の94年夏、小倉はチームを甲子園に導いた。その後2年間、甲子園出場は逃したが、武田勝(元日本ハム)を育てるなど、復活の地盤を固めた。夏に向け、チームを強化中だった96年12月、予期せぬオファーが届いた。低迷する母校・日大三からの監督就任要請だった。(敬称略=つづく)【久保賢吾】

(2018年1月14日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)