全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。名物監督の信念やそれを形づくる原点に迫る「監督シリーズ」第13弾は、大阪桐蔭を率いる西谷浩一さん(48)です。監督として、春夏通算5度の甲子園優勝を誇る実績は、西谷さんの指導力のたまものです。屈指の勝率の裏にあるものは-。その背景を全5回でお送りします。


07年1月、中田の投げ込みを見守る西谷監督
07年1月、中田の投げ込みを見守る西谷監督

自分たちよりはるかに大きな中学生を囲んで、小学生が騒いでいた。広島市内の太田川河川敷グラウンドで練習する広島鯉城リトルシニアの昼食が始まろうとしていた。

「翔! 翔! 卵焼きくれん?」

「何でお前らにやらにゃいけんのんや!?」

「けちじゃの」

「おい、勝手に取んなや!」

リトルチームに所属する小学生に弁当箱をつつき回され、シニアの主砲がわめいている。「なんや、ええヤツやないか…」。拍子抜けたした気持ち半分、ほっとした気持ち半分で、西谷はつぶやいていた。卵焼きを奪われた中学生こそ、目当ての中田翔(日本ハム)だった。

西谷は98年11月に大阪桐蔭監督に就任。いったんコーチに戻り、04年に再び監督になった。チームを鍛える一方で、有望な中学生のうわさを聞けば練習場所に足を運んだ。大阪桐蔭に入るかどうかは分からない。ただ、他校に入ったとしても、どこかで対戦する可能性がある。どんな才能の持ち主かを確かめておきたかった。情報網にかかったのが、投打で超中学級といわれた中田だった。

中田は大魚だったが、怪魚でもあった。さまざまなうわさがついて回った。欲しいのはやまやまだが、とても手に負えないと、広島県内の各有力校、甲子園の常連校が中田育成を諦めたといわれた。だが、ブルペンで投球を見たとき、悪評など西谷の頭から吹き飛んだ。

西谷 すごい球を放っていて、衝撃を超えてびっくりしました。何や、これは!? と。速いし、コントロールいいし、変化球もいい。すべてが突出していました。

心をわしづかみにされるとは、このことだった。気がつけば、西谷の足は広島に向いていた。金曜の夜、午後8時にスーツ入りのバッグを抱えて大阪・大東市のグラウンドを出発。新大阪駅から午後9時半の下りの新幹線に乗り、広島駅前のビジネスホテルへ。翌朝7時前に河川敷グラウンドで練習開始を待ち受けた。中田はチームメートより1時間早く先乗りし、グラウンドを整備していた。人より早く来る姿勢、休憩時間に小学生にからかわれる姿、圧倒的なブルペン。すべてを総合判断し、入学を待ち望んだスーパー中学生は05年春、大阪桐蔭にやって来た。

西谷 失敗はできない子だとは思っていました。「ほら見てみ」みたいになったらイヤだったんで。でも、やっぱりいいヤツだった。昭和のガキ大将ですが、野球に関して言うなら純粋な子。道をそれることは高校3年間で1度もなかったし、後輩をいじめたりもしなかった。

寝坊、授業中の居眠り、試験の赤点。そのときは当然、中田を叱った。だが許せないと思ったことは、1度もなかった。

西谷 「中田、大変やったやろ?」とはよく言われましたが、全然大変じゃなかった。楽しかったです、3年間。

大阪桐蔭は、中田が入学した05年夏の甲子園で4強入り。メンバー入りした中田は1回戦・春日部共栄(埼玉)戦で、緊張で本来の力を出せないエース辻内崇伸(元巨人、現埼玉アストライア監督)を好救援し、決勝ソロも放った。接戦を制しての初戦突破は、監督・西谷にとっての甲子園初勝利だった。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

◆西谷浩一(にしたに・こういち)1969年(昭44)9月12日、兵庫・宝塚市生まれ。小学2年から野球を始め、主な守備位置は捕手。報徳学園(兵庫)から関大へ進み、3年時に全日本大学選手権準優勝。4年時は主将を務めた。93年から大阪桐蔭コーチを務め、98年11月から監督。いったんコーチに戻り、04年に監督に復帰。08年夏に浅村(西武)らを擁し全国制覇。12年は藤浪(阪神)、森(西武)らと甲子園春夏連覇。春夏5度甲子園で優勝。社会科教諭。

(2018年3月4日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)