阪神の外国人を取材したのは1975年くらいからだった。以来、累計100人は超えただろう。印象に残る選手は多くいた。ブリーデン、ラインバックは優良外国人選手だった。NO.1はやはりバース。とはいえ彼はサブの選手として来日している。獲得にあたったのは当時の監督、安藤統男だった。

本命はストローターという選手で、バースはさほど期待されていなかった。ところが、外国人選手は実際に見てみないとわからないもの。ストローターはまったくダメで、安藤は早々と見切りをつけた。残ったバースは1年目、及第点で終え、そこから覚醒。2年連続3冠王に輝くなんて、来日当初を知る者としては信じられないことだった。

メジャーのバリバリで、当時の最高条件で入団しながら、「神のお告げ」でおさらばしたのがグリーンウェル。メジャーのプライドが邪魔をしたのか。比較的、期待値の低い選手の方が活躍したという思い出は多い。マートンもそうだし、メッセンジャーは年々、日本で成長して10年も在籍。優良外国人のトップクラスと評された。

中でも僕が実際に生取材した大男は強烈なインパクトを残した。1989年、190センチ、100キロを優に超える巨体で度肝を抜いたのがセシル・フィルダーだった。デカい、とにかくデカかった。年齢は25歳。異例の若さだったし、メジャーでも注目されていた次代の大砲。それが阪神にやってきた。条件もよかったし、獲得にあたった球団の熱意もあった。フィルダー自身、日本に興味があったことも大きな材料だった。

時の監督は村山実。「エースと4番は日本人で」を言い続けた監督だったが、さすがにフィルダーは4番。早々と決めた。ところがキャンプ、オープン戦とまったく結果が出ない。打撃コーチの石井晶が熱心に指導しても、一向に効きめなし。この事態に村山はイライラがつのり、4番案を白紙に戻した。「何がメジャーのバリバリや。あれはアカンぞ」と、非公式のところでは、ボロクソにけなしていた。

オープン戦ではホームランどころかヒットも出ない。そして最終戦となった巨人戦。ついにフィルダーが打った! といってもピッチャー前のボテボテの内野安打。それでも「F砲、待望のヒット」の見出しで、スポーツ紙は1面を飾った。

期待感は薄くなり、ファンの間でも失望の声が高まる中、シーズン・イン。ところがここからフィルダーの逆襲が始まった。飛距離十分のホームランを量産。横浜スタジアムで場外2本を放つなど、ホームラン王争いにも参戦した。

しかし、ここで悪夢が…。シーズン終盤、三振に倒れたことが悔しかったのは、バットを地面にたたきつけたあと、跳ね返ったバットのグリップエンドが指を直撃。これで骨折し、そのまま日本を去ることになったのだ。シーズン38本塁打を記録して、たった1年でタイガースに別れを告げた「荒熊(日刊スポーツが命名)」、メジャーに戻ると、ホームラン王に打点王。日本での経験を生かし、大器は花開いた。

そんなフィルダーを思い起こさせるのが今年の新外国人、ミエセスである。フィルダーを少しだけ小柄にしたような体形。それでも100キロを超えているだけに、迫力は十分。風貌もフィルダー寄りで、早くもチームになじんでいる適応力もうれしい限り。本命はノイジーで、ミエセスは2番手の外国人という評価だが、バースの例もある。こういう選手が大化けするという例は多い。

岡田は外国人に関して、人間性とかを重要視していない。要は結果を出してくれれば、少々のことなら、気にしない。態度が悪い、協調性がない、練習嫌い…とかも、すべては結果。「ホンマに打ってくれるなら、何億はらってもエエやん」とさえ言う。

幸い、ミエセスは陽気で、前向き。キャンプ地に早く入り、準備を整え、キャンプインした。いい意味で「第2のフィルダー」になれるか。当然、日本野球の戸惑いは出るだろうが、そこは水口、今岡の打撃コーチによって、越えてもらいたい。見ていて楽しい外国人バッター。少し期待しているのだが、いかがなものか。(敬称略)【内匠宏幸】(ニッカンスポーツ・コム/野球コラム「岡田の野球よ」)

阪神時代のセシル・フィルダー(1989年3月19日撮影)
阪神時代のセシル・フィルダー(1989年3月19日撮影)