元プロ野球選手がクラブチームから、再び夢を追う。元巨人育成の最速152キロ右腕、山上信吾投手(21)が17日に練習生契約を結んでいた独立リーグのBC・神奈川と正式契約に至った。背番号は19。「チームの勝利のために全力で頑張りますので、応援よろしくお願いします」とコメントした。

前所属は「ヌーベルベースボールクラブ」。日本テレビ系「世界の果てまでイッテQ」「今夜くらべてみました」などの人気テレビ番組の制作も手がける映像制作会社「ヌーベルグループ」の支援を受けて運営される硬式クラブチームだ。高校3年生から46歳まで、幅広い層の“野球好き”が集う。活動日は土日祝日。各々が職を持ちながら、全日本クラブ野球選手権、都市対抗野球大会出場を目指す。

山上は群馬・常磐高から17年育成ドラフト2位で、両親とともに大ファンの巨人に入団。183センチの長身を生かし、入団当時最速146キロの直球、落差のあるフォークを武器にした。だが、右肘痛で1年目を棒に振った。復帰後の19年4月には自己最速の152キロを計測したが、制球難を克服できず、2年間で2軍戦登板は1試合のみ。昨年7月に打診を受け、内野手へ転向。再起を図ったが、オフに戦力外通告を受けた。投手としてトライアウトに参加。しかしNPB、社会人、独立リーグからの声はなかった。

将来を考えた。投手としてやりきって、クビになったなら諦めもつく。くすぶる思いを消化できずにいた今年1月上旬、知り合いの紹介で同クラブの存在を知った。「正直、クラブチームがどういうものか全く分からなかったです」と知識はなかった。それでも、部員の熱意に、心を揺さぶられた。将来的なNPB復帰を見据え、独立リーグへの入団を直近の目標に、在籍期間の目安はクラブ選手権の予選がある5月ごろまで。その間のプロセスを親身に考えてくれた。「ピッチャーとしてやりたいことをやらせてくれる。もう一度チャレンジしたいと思いました」と同月下旬に入部を決めた。

当然のことだが、環境には大きな差がある。グラウンドが使えるのは土日祝日、1回で4時間程度。茨城、千葉の遠方地でナイター練習を行う場合は、1泊4000円程度のシティホテルの4人部屋に泊まることもあった。「窓を開けたら目の前がゴルフ場でした」。プロでは真新しい練習球を何度も使えたが、そうもいかない。「プロの世界は恵まれていたんだなと、改めて感じられました」。

巨人時代は寮生活。家賃5万5000円のマンスリーマンションで人生初の1人暮らしを始めた。同じく人生初のアルバイトも始め、8時間労働で日給1万円程度の引っ越し作業を週3回。重い荷物を持ちながら、団地の階段を夢のために駆け上がった。自炊も始め、中学2年の調理実習以来の包丁を握った。得意料理はチャーハン。グラウンドを使えない平日は、クラブが借りる室内練習場や自宅近くのトレーニングジムを一般利用し、体力強化に努めた。将来を見据え、巨人時代に蓄えた貯金を切り崩す生活。光熱費節約のため、家を出る前にコンセントを抜くことが日課となった。それでも「大変ではなかったです。今は気分転換が野球です」と忘れかけていた野球の楽しさに気づけた。

入部当時に立てた計画は、順調に進んだ。巨人時代は救援登板が主。様々な起用に対応できるように、長いイニングを投げる練習に取り組んだ。課題の制球力向上も狙い、フォームの脱力を意識。得意球のフォークを改良し、カウント球にも決め球にも活用できる小さく落ちるスプリットを習得。ギアの入れ替えに手応えをつかみ、100球を超えても常時140キロ中盤の速球を投げられるようになった。全日本クラブ野球選手権の予選で、昨季都市対抗に出場したハナマウイを相手に6回1/3を2失点とするなど、結果も伴ってきた。

自身をクラブへ誘ってくれた部員の知人を介し、投手を求めていたBC・神奈川のトライアウトを受験。複数人の候補者がいる中、契約をつかんだ。「うれしいですが、まだスタートラインに立っただけです」。巨人時代のコーチで、投手としての素質を高く評価していた小谷正勝氏へ報告の電話を入れ「与えられた環境で頑張れ」と背中を押してもらった。「支えてくれている方々へ恩返しができるように、ひたむきに頑張りたいです」。まだ21歳。大学でいえば4年生。届かなかったプロの1軍マウンドを目指し、汗を流し続ける。【桑原幹久】