星稜(石川)は8回まで6点リードも、その裏に8失点。9回に2点差を追いつく意地を見せたが、延長タイブレークの末、13回に逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びた。先発の奥川恭伸投手(2年)をはじめ、4番手の竹谷理央外野手(3年)らが足をつらせるなど想定外の不運が続き、劇的な幕切れで甲子園を去った。林和成監督(43)は「これも野球ですし、これも甲子園です」と声を振り絞った。

 星稜・林監督と済美にも深いつながりがあった。11年に監督に就任し、2年目の夏。甲子園に行けず、当時済美監督だった故上甲正典氏に教えを請いたいと、恩師の山下智茂名誉監督(73)に願い出た。上甲氏から、自分のやりたい野球、色を出すため「林和成の100カ条を作りなさい」と助言され、ホテルに帰ってすぐに作ったという。翌13年夏に監督として初の甲子園出場。100カ条を書いたメモは今もパソコンに入っている。

 林監督は92年夏に選手として「松井の5敬遠」を経験。指導者として、またも夏の記憶に刻まれる試合を経験した。試合後の宿舎ミーティングでは、すすり泣く3年生1人1人に言葉をかけた。「100回大会で、開幕戦で、松井さんの始球式で。敗れはしたけど、あの大観衆の中で、野球をしたい選手はたくさんいる。360度からうなり声のように聞こえる中で野球ができた。お前たちは幸せものだと思うよ」と選手をたたえた。