日刊スポーツの記者が、懐かしい球児たちの今と昔に迫る不定期連載「あの球児は今」。今回は、平安(現龍谷大平安=京都)の左腕エースとして97年春夏連続で甲子園に出場し、春4強、夏準優勝の川口知哉さん(40)。同年ドラフト1位でオリックスに入団。未勝利のまま04年に現役引退しましたが、10年から女子プロ野球に関わり、現在は京都フローラの監督3年目です。

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「ビッグマウス」と言われた威勢いい言動と、落差のあるカーブ。平成の甲子園を彩った川口さんの代名詞だった。現在は白地に紫の着物をイメージした京都フローラのユニホームに袖を通し、監督としてグラウンドに立つ。「(女子は)引き出せば引き出すほど能力がある。男子にはないものがある。面白くて目が離せない」。言葉の節々に充実感がにじむ。

97年夏の甲子園。平安のエースで4番、主将として1回戦から決勝まで全6試合完投で準優勝に導いた。ドラフトは4球団競合の末、意中のオリックスへ。契約金1億円プラス出来高払い5000万円、年俸840万円と前途洋々だった。

しかし1年目の98年3月、投球フォームを見失った。周囲から左膝を折らずに投げるよう助言されて取り入れたが、体重移動がうまくいかず投球動作のズレから左肩を痛めた。「やったことのない投げ方をして痛めて、その後は痛めたところをかばう動きになった」。元には戻らなかった。99年はプロ初登板したものの1試合に終わり、長く制球難に苦しんだ。多数の指導者の意見と向き合っては未消化の繰り返し。復調の手応えを感じた時期もあったが「何しても合わへんやん、無駄やなと。野球が嫌いになってました」。7年目の04年に戦力外通告を受けた。通算9試合で0勝1敗。甲子園のアイドルがプロで投げたのはわずか12イニングだった。「出口」を見つけられず25歳で引退した。

その後は外装関係の家業に専念。2年ほど過ぎたころ、知人から地元京都で中学硬式野球チームの指導の手伝いを依頼された。「自分はいろいろな指導を聞いていた。選択肢を提供できるなと」。個々に合った指導をすると、技術、個性が伸びた。奥深さを感じた。「野球を教えるのは面白いと変わっていきました。いろいろな人にいろいろ言われたけど、無駄じゃなかったと思えるようになりました」。1度は閉じた野球の道が指導者という形で再び開いた。

地元に女子プロ球団が設立され、10年から京都の前身チームのコーチを引き受けた。兵庫のヘッドコーチなどを経て、18年から再び京都に戻って監督に就任。「人それぞれ持っているものが違う。合っているものを提供する。押しつけはしない。おかしいと思ったらすぐにやめます」。選手として苦難のバックボーンがあるから指導哲学に説得力がある。個々の素材、能力を尊重する。チームはリーグ連覇中と成果は出ている。

1度は自分を見失ったプロ野球選手としての歳月とは-。「自分の中では、生きている意味のある7年を過ごさせてもらったと思っています」。長い野球人生の中で1つのステップだったと胸を張って言える。「自分が(指導を)やってチームが強くあることでいる意味があるし、教えた子たちが活躍するのは魅力。やっていて良かったなと」。川口さんは自分の道を確かに歩んでいる。【望月千草】