おなじみの夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」は太平洋戦争終戦の3年後、1948年(昭23)に作られた。作曲したのはマーチの名手として鳴らした作曲家の古関裕而氏だ。甲子園のマウンドで曲想が湧き、戦後の閉塞(へいそく)感を破る願いを明るい旋律に込めた。後編は長男の古関正裕氏(74)に作曲の背景や思いを聞いた。【取材・構成=酒井俊作】

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この夏、全国高校生の吹奏楽部やコーラス部が一堂に会した。「栄冠は君に輝く」を一斉に演奏する「#みんなで栄冠」を朝日新聞社が主催。10日午前10時10分からリモート合奏した。公開中の動画では音色と歌声が美しく重なり、実に伸びやかだ。誰でも参加でき、作曲した故・古関裕而の長男正裕も輪に加わった。

正裕は「今風にアレンジしたり、高校生がダンスすることもある。若い人が演奏してくれて、とてもうれしいです」と話す。48年8月13日の甲子園開会式で初披露。当時2歳だった正裕は父の背中を見て育った。

「隣が父の仕事部屋でした。机に座って五線譜に鉛筆を走らせたり、たまに鼻歌を口ずさんでいたり。でも作曲している時、楽器も使わないから、どんな曲を作っているのか一切、分からなかった」。作曲生活で5000曲以上。父は「作るのではなく、生む。自然に湧いてくる」と話していた。現地の空気に触れ、あふれ出る感性に委ねた。

終戦から3年。裕而が作曲の打ち合わせで行った大阪は戦時中、約50回の空襲に遭い、まだ傷痕は深かった。自伝に「大阪を終戦後初めて訪れ、戦災の跡も、所々に生々しく残る市街地を見ながら中之島の大阪朝日へ行った」(『古関裕而 鐘よ鳴り響け』日本図書センター)と記した。藤井寺球場で球児の予選を見たあと、向かったのは甲子園だった。誰もいない静かな球場でマウンドに立ち、ぐるりと周りを見回した。

「ここにくり広げられる熱戦を想像しているうちに、私の脳裏に、大会の歌のメロディーが湧き、自然に形付けられてきた。やはり球場に立ってよかった」(同書)

若人が一球一打に執念を燃やす。光、希望、緑の葉…。加賀大介の詞が胸に宿っていた。しかも、戦争の荒廃から立ち上がろうとする人が無数にいた。たちどころに旋律が湧き上がってきた。正裕は言う。「戦後でまだ何もない貧しい時代でした。未来を担う高校生たちのための曲という思いがあったでしょう。戦前、戦中と区切りをつけて新しい時代のスタートです」。父は運動が苦手だったが、五線譜の上では、音が力強く躍動していた。

正裕は7年前、父の楽曲を中心としたライブユニット「喜多三」を結成。いまはコロナ禍で活動できないがライブのアンコールで合唱するのがこの曲だ。「時代を超えて残る曲って極めてシンプルですよね。テンポ、そして跳ねたようなリズムで、メロディーはキレイだし、誰が聞いてもいい曲。皆さんに歌い継がれてエールを送り続けられればいいですね」。戦後とともに時を刻んだ、明るく、爽快な音色だからこそ、ウイルスにおびえる今日、心がちょっと軽くなる。(敬称略)(終わり)

◆古関裕而(こせき・ゆうじ)本名・古関勇治。1909年(明42)8月11日、福島市生まれ。福島商卒。30年にコロムビアの専属作曲家になる。31年に早大応援歌「紺碧の空」、36年に「大阪タイガースの歌」(通称・六甲おろし)、63年に「巨人軍の歌」(通称・闘魂こめて)、64年に東京五輪の行進曲「オリンピック・マーチ」などを作曲。89年8月18日に80歳で死去。19年に野球殿堂特別表彰候補入り。20年NHK連続テレビ小説「エール」の主人公のモデルになった。