悲願の優勝旗「白河の関越え」達成を記念し、日刊スポーツの東北支社、支局に駐在した歴代の高校野球担当記者がさまざまな思いを語る「白河の関越え 思いを馳せる」第2回は、15年夏の仙台育英準優勝を取材した久野朗記者です。

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東北総局在籍時に6回、春夏の甲子園を取材した。一番記憶に残っているのは、仙台育英が準優勝した15年夏。この年は1915年(大4)に全国高校野球選手権の第1回大会開催から、ちょうど100年の節目の年だった。決勝はエース左腕の小笠原慎之介(中日)を擁した東海大相模(神奈川)に6-10と敗戦。一時同点に追いつく粘りを見せ、9回に4点を勝ち越された。あの頃、決勝戦だけ試合直後にベンチ前で監督に取材ができた。当時の佐々木順一朗監督(現福島・学法石川監督)の言葉は今でも記憶している。

「神様がうちに勝たせてくれるような試合だった。まだ勝たせてくれないのか」

あの代の仙台育英は、全国制覇を十分に狙えるメンバーがそろっていた。佐藤世那(元オリックス)が絶対的エースで、平沢大河(ロッテ)、郡司裕也(中日)らがクリーンアップを組んだ。14年秋の明治神宮大会を優勝し、翌春のセンバツはV候補。ところが2回戦で敦賀気比(福井)に敗れ、雪辱を期した夏だった。3回戦でエース高橋樹也(みきや=広島)を擁する花巻東(岩手)に4-3で競り勝ち、準々決勝は好投手・成田翔(かける=ロッテ)がいた秋田商に6-3と「東北対決」を2試合連続で制した。準決勝は1年生の清宮幸太郎(日本ハム)が活躍していた早実(西東京)に7-0と快勝して迎えた決勝戦だった。

その決勝は最大4点のリードを許す劣勢だった。それでも3点を追う6回裏、1番佐藤将太がファウルで粘りに粘って、走者一掃の中越え3点三塁打を放ち、6-6に追いついた。試合の流れが完全に変わった。その時、甲子園が「育英」コールで沸いた。「大旗の白河越え」…。東北勢100年の思いを、ファンは確かに感じ取っていた。

9回表。佐藤世が先頭の小笠原にソロ本塁打を打たれ、その後3失点した。佐々木監督の「まだ勝たせてくれないのか」はチームの敗戦はもちろん、記念すべき高校野球100年の夏に、東北勢の悲願を達成できなかった無念がにじみ出ていたと思う。

当時の原稿を読み直すと、同監督は「歴史が変わった瞬間と言いたかったが、新しい歴史が始まったと実感した」とも言っていた。次の100年に希望の光をともした準優勝。あれから7年、同じ仙台育英が夢をかなえた。15年夏の無念を知る記者だからこそ、感慨深いものがある。【14年4月~17年10月東北総局、久野朗】