17年に就任した報徳学園・大角監督は2度目の甲子園で決勝まで導いた。

「完全に力負け。私の継投の判断で流れが向こうに行ってしまった」と悔やんだ。

甲子園への強い思いは、30年前に刻まれた。地元公立校の川西明峰が快進撃で93年のセンバツに出場した。兄の猛仁さんが背番号10でベンチ入り。前年秋に報徳学園を倒しての甲子園切符だけに一家の喜びは大きかったが、暗転した。兄は開会式直前、腰椎分離症の悪化で歩けなくなった。チーム宿舎から無念の帰宅。両親に「ごめん」と謝り泣きじゃくる兄の姿に、12歳は「僕が代わりに甲子園に行く」と心に誓った。

兄は甲子園のために作ったグラブを2度と使わず「おまえが使え」と弟に引き継いだ。報徳学園に進んだ大角監督は、捕手として4度甲子園に出場。3年春は松坂大輔がいた横浜とも対戦した。立命大4年時、母校の竹村洋一部長が他界。葬儀で永田裕治監督に「手伝ってほしい」と頼まれた。約15年間の下支えを経て、大役を引き継いだ。この日が、人生初という全国大会の決勝戦。「執念を持ってやってきたつもりでしたが、林君におよぶものが報徳にはなかった」。また新しい戦いが始まる。【柏原誠】

◆兵庫県勢は決勝7連勝でストップ 春夏を通じ兵庫県勢の決勝は52年夏・芦屋、53年春・洲本、74年春・報徳学園、77年夏・東洋大姫路、81年夏・報徳学園、93年夏・育英、02年春・報徳学園と7連勝中だった。準Vは51年春の鳴尾以来。報徳学園は4度目の決勝で初黒星。

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