センバツ大会は今年で100年を迎えた。では100年前、最初はどこで行われたか知ってますか? こう聞かれると、甲子園ではないと予想できる。豊中? 鳴尾? 西宮? それは夏の大会。1924年(大13)4月、第1回全国選抜中等学校野球大会は名古屋の山本球場で行われた。

第2回からは、その4カ月後に完成した甲子園球場に移った。春夏あわせ唯一、関西以外で開催されたことは意外と知られていない。市営地下鉄いりなか駅から徒歩10分ほど。名古屋の八事(やごと)にある球場跡地には「センバツ発祥の地」のモニュメントこそ立つが、今はマンションが立ち並ぶ。面影は消えても、そこからセンバツの歩みは始まった。球場名の元になった、ある人物抜きには語れない。

球場を建てた山本権十郎には2つの顔があった。まずは商売人の顔。名古屋で布地、運動具、そろばん、不動産などを扱っていた。玄孫(やしゃご)の山本宗平さん(52)は「とにかく仕事に厳しい人だったそうです」。来店したご用聞きが折れた鉛筆の替えを貸して欲しいと頼んだ。すると「替えの鉛筆も持たないで仕事になるんか」と追い返した-。そんな逸話が残る。宗平さんの大叔母、つまり権十郎の孫からみても「怖いおじいさんだった」そう。写真の眼光も鋭い。1858年(安政5)生まれ。文明開化の時代を生き抜いた明治の大旦那だった。

もう1つは篤志家の顔だ。宗派に関係なく、寺社への支援を惜しまなかった。球場建設も、もともと地域の小学校の役員をしていた縁から。所有する山林を切り開き運動場を整備。林間学校に提供した。後に人に勧められ、球場とした。1922年(大11)、権十郎64歳の時だ。赤土とトタンの設備だが、名古屋新聞は「球場難がある程度まで緩和する」と期待を込めて報じた。関東、関西に比べ、野球発展に後れを取る中京地区待望の開場だったようだ。既に夏の全国大会を開催していた朝日新聞への対抗心もあり、新たな大会を画策する大阪毎日新聞の思惑に合致したのだろう。第1回の舞台に選ばれた。

権十郎は後の名大の学生寮も支援するなど、若者への援助にも熱心だった。中学生の大会に供することは本意だったはず。一方で、宗平さんは「機を見るに敏だったと思う。雑貨商から始めて、布地で成功して運動具。(球場建設は)自分の商品のユーザーを増やすことになる」と商売戦略の面も指摘する。ゼンショーという野球道具の自社ブランドを持っていた。

ただ、球場でビジネスを考えていたかといえば、その色は薄かったとみる。「地元愛。本人の気質からすれば、もうけたくてやることはなかったのではと思います」。職業野球だけでなく、松坂屋の社員運動会にも使わせた。また自社の野球チームを作り、店先に東京6大学の試合結果を張り出した。野球への思い入れ自体が強かったようだ。

1回限りとはいえ、権十郎の山本球場からセンバツは始まった。宗平さんは「うちの先祖が一役買ったのは、すごいことだなあと思います。100年たった。場所は変われど続いている。本人も草葉の陰で喜んでいるんじゃないかな」と、1939年(昭14)に81歳で亡くなった高祖父に思いをはせた。【古川真弥】

○…山本球場は敷地の制約から、左翼が極端に狭かった。距離の短さを理由に、第1回大会の本塁打は88年まで認定されなかった。左翼に本塁打を放った市岡中の広岡知男さんは「主催者が球場として選んだのだから、認めなかったのはおかしいよね。ま、どっちでもいいけど」と話している(毎日新聞00年3月22日)。36年には、草創期のプロ野球も行われた。7月15日からの「全日本野球選手権」名古屋大会で、初日の巨人対大阪タイガースが「伝統の一戦」の始まりだ(8-7で大阪タイガースが勝利)。戦時中は芋畑に姿を変え、戦後は名古屋鉄道管理局に無償貸与(後に売却)。国鉄八事球場と名を変えた。90年に国鉄清算事業団により売却されるまで、JR東海野球部のグラウンドとして使用された。

◆大会100年 センバツの第1回大会は100年前の1924年(大13)4月1日、愛知・山本球場でスタートした。第1回大会優勝は高松商。同年8月1日には甲子園球場が開場し、今年は甲子園も100周年となる。