日刊スポーツ評論家が阪神をはじめ野球界への提言、問題点を掘り下げる「野球塾」の特別編は、本紙客員評論家で、85年阪神日本一監督・吉田義男氏の登場です。球界のご意見番が「平成の虎」を語りました。【取材・構成=寺尾博和編集委員】

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プロ野球界は激動の平成でした。阪神で潮目が変わったのは野村(克也)、星野(仙一)の外部招請。私は平成9年の97年、平成10年(98年)に指揮を執りましたが、後任にヤクルト監督だった野村が平成11年の99年シーズンに起用されたのです。

阪神の監督人事ではよく裏で動く人物がいた。その結果が3年連続の最下位ですわ。野村の実績からいけばもうちょっとやれた。コンプレックスとプライドが同居した男にとっては屈辱だったと思います。

私と同世代の監督で手腕を発揮した人材というと、広岡(達朗)さん、上田(利治)、森(祇晶)、長嶋(茂雄)ら数多い。その時代で、私がいう名将は仰木(彬)ですね。

野村もその1人でしょう。今もマスコミを通じて阪神に対する恨み節を込めています。昨年末、テレビ番組で顔を合わせた際に「1度は世話になったのだから、もう言わんほうがいいぞ」と個人的な気持ちは告げておきました(笑い)。

昭和60年以来のリーグ優勝を遂げたのは星野。日本財界をリードするある方から「あの男は政治家としても成功する」とうかがっていた。現場、フロントで計20人以上の血の入れ替えをしたのは彼らしかった。

野村も、私も苦労したのは、なかなか戦力がそろわなかったこと。“政治家”星野は、当時の久万俊二郎オーナーを口説き、電鉄本社の金庫の扉を開かせた。ここが阪神がFA補強を中心にするチーム作りに走る突破口になった。

平成17年(05年)、星野の後継だった岡田(彰布)がリーグ優勝を遂げる。どちらかというと“攻め”の監督で、打つことだけでなく、JFKの抑え陣で攻めたのは「岡田色」です。また、落合(博満)、原(辰徳)ら監督が育った時代でしたな。

FA補強に頼って、外国人に依存度が高すぎると若手の芽を摘む。監督、コーチら、指導者受難の時代にさしかかっているのも気になることで、育っていないのか、育てていないのか…ここも問題でしょうな。

わずか2度しか優勝できなかった阪神の平成ですが、もっとも私の心に残っているのは、中村(勝広)があと1歩でV逸した平成4年(92年)。野村が率いた9月11日ヤクルト戦(甲子園)は6時間26分間、延長15回の死闘の末、引き分けに終わった。

当時の私は仏ナショナルチーム監督で、遠征先のフロリダで報告を受けた。同点の9回裏、八木(裕)が放った左越え大飛球の判定がホームランからエンタイトル二塁打に変更。中村の猛抗議も覆らず首位攻防戦に引き分け。あそこで1つ勝っておけば優勝していたし、阪神のヒストリーは変わっていた。平成では昨年まで計10人が阪神監督に就き、元号が変わる今年は矢野(燿大)が率いている。監督としては(藤田)平、真弓(明信)、和田(豊)、金本(知憲)が紡いだ。でも、プロ野球の監督とは歴史の1コマでしかない。

たかが阪神、されど阪神。これだけの伝統と歴史があるのに、特にもうちょっと宿敵巨人には勝たんとね。もう10歳若かったらグラウンドにおりて内野手を教えてますわ(笑い)。

チームは世代交代の端境期で、うまく球団がかじを取って乗り切ってほしい。“人”が必要ですがね。わたしは阪神とともに人生を歩んできた。元号が令和に変わるわけで、近いうちに優勝がみたいものです。