夏の甲子園大会の前身、全国中等学校優勝野球大会で戦後初の1番打者となり、8月31日に亡くなった京都二中(現鳥羽高)出身の黒田脩氏(享年91)のお別れ会が29日、大阪市北区のリーガロイヤルホテルで行われ、約400人が参列した。

黒田氏は終戦翌年の1946年(昭21)に復活し、西宮球場で開催された全国大会に京都二中で出場し、開幕試合で成田中(現成田高)と対戦した。「1番三塁」で1回表の最初の打席に立ち、四球を選んだ。チームは決勝で浪華商(現大体大浪商)に0-2で敗れたが、準優勝に輝いた。

京都二中は第1回大会で優勝した伝統校。黒田氏は大阪の自宅が戦火に遭って、その後、移り住んだ京都で野球に出会った。戦中戦後の野球史を知る貴重な存在だった。

同志社大を卒業後は、家業を継ぎながら、当時の関西6大学連盟(現関西学生野球連盟)の理事長に就いた。82年のリーグ再編に尽力するなど、学生野球の運営に尽力した功労者だった。

この日のお別れの会では、京都二商(京都市立第二商業校)出身で、85年阪神日本一監督の吉田義男氏(87=日刊スポーツ客員評論家)が弔辞を読んだ。

3歳年下の吉田氏は、亡き先輩の遺影に「野球が戦後復興期の苦難の時代から国民的スポーツになったのは、黒田さんのような情熱のある野球人が支えてきたからです」と語りかけた。

また、継承校の鳥羽高・松下浩司監督(38)は「1年に1度、野球部が食事にお招きしていただくのですが、まず最初は黙とうから入りました。いつもグラウンドで激励していただきました」と振り返った。

黒田氏の同級生で、神戸大野球部出身の元阪神タイガース球団社長・三好一彦氏(90)らも出席。経済界、野球界など幅広い業界からゆかりの人がしのんだ。

黒田氏の弟は、元読売新聞大阪本社社会部長・黒田清氏(故人)で、日刊スポーツ大阪本社版で「ぶっちゃけジャーナル」を連載した。ジャーナリストの大谷昭宏氏(75)は「球児の夏 戦後初の1番バッターは平和を尊び、野球を愛し、いまここに静かにバットを置く」とメッセージを送った。【寺尾博和】