監督就任5年目の1967年(昭42)、球団創立32年目で悲願の優勝を果たすと、西本はチームを常勝軍団に変えた。ただ阪急ブレーブスで5度の日本シリーズ出場を果たしたが、5度とも巨人に敗れた。

米田哲也は、左の梶本隆夫と並ぶエース。川上哲治が率いた巨人V9時代のまっただ中に対戦した宿敵の強さに、米田は「あのメンバーなら、だれが監督でも勝てたんじゃないのか」とうそぶいた。

「ど真ん中に投げてもボールと言われることが何度もあったからね。打力の差だったかもしれない。打たれた記憶もあるし、勝ったこともある。でも、みんな忘れたよ」

本当は覚えているのに、その口ぶりはやせ我慢をしているようにしか聞こえなかった。「ヨネ・カジ」に続いた足立光宏は、シリーズで9勝を挙げたが「巨人が一番強かった時代。王、長嶋の2大スターがいて太刀打ちできなかった」と振り返った。

また、4番の長池徳士は「やっぱり勝負事に負けるのは力がないんですよ。お膳立てをする人はいたけど、やはりON(王、長嶋)にやられた気がする。でもチームに対する熱意、選手の作り方は西本さんがナンバーワンだと思ってます」と監督を立てた。

69年は西本にとって、“三度目の正直”といわれた日本シリーズだった。10月26日、1勝2敗で迎えた第4戦。3-0でリードした4回裏無死一、三塁。巨人は三振に倒れる長嶋茂雄の空振りでダブルスチールを仕掛けた。一塁走者の王貞治がスタートを切ると、捕手の岡村浩二が二塁の山口冨士雄に送球した。

カットした山口から岡村に返球され、三塁からホームに突っ込んだ土井正三に岡村がタッチにいったが、判定はセーフだった。判定に怒った岡村が主審の岡田功に暴行、日本シリーズ史上、初の退場処分を受けた。翌日のスポーツ紙は土井の左足が岡村の股間からホームインしている写真を報じた。阪急はこのプレーを機に逆転負けを喫した。

巨人の壁に阻まれたもう一つの瞬間は、第二次黄金時代だった71年の日本シリーズだ。1勝1敗の第3戦。先発の山田久志は8回までわずか2安打に抑える。1-0で迎えた最終回は柴田勲に四球で1死一塁、3番長嶋のゴロが山田の右足の横を抜け、二遊間を転がって中前打になった。

ショートの阪本敏三も西本に育てられた定評のある野手だが、その打球に20センチほど届かなかった。

「長嶋さんは前の打席(左飛)と同じで引っ張ってくると思ったから、右にくる確率が高いと読んだ。だから三遊間寄りに2歩動いたんです。ボテボテで定位置ならなんでもない当たりだった。でも全員で攻めてくる巨人には圧迫された感じでした」

あとで緩慢と指摘されたが、阪本は言い訳をしなかった。それは西本の教えでもある潔さだった。

1死一、三塁。山田が王の1-1から投じたインコースを狙ったストレートがやや外角にいった。それをまんまとライトスタンドに運ばれる。一塁手加藤秀司は「ガツンといかれた」、右翼手の長池は「頭上を越えていった」と語った。衝撃の逆転サヨナラ負け。マウンドの山田は膝から崩れ落ちた。【編集委員・寺尾博和】

(敬称略、つづく)