智将・三原魔術がよみがえる! 日刊スポーツの大型連載「監督」の第6弾は巨人、西鉄、大洋、近鉄、ヤクルトを率いて通算監督勝利数2位の三原脩氏を続載する。

    ◇    ◇    ◇

西鉄ライオンズが奇跡の優勝を遂げた1956年(昭31)、中西太は三原のまな娘敏子と結婚する。中西は「わたしから大監督の娘さんをくださいとは言えなかった」という。

三原は夫人の妙子と福岡に移ったが、東京遠征の際には選手を成城の自宅に招いた。東京に残された敏子はいつも福岡からの電話を受けていたから、選手たちとは顔なじみだった。

ある時、高松の後援者が三原に中西を長女敏子の伴侶に勧めたようだ。当時を振り返った敏子は「主人(中西太氏)からは何も言われていません」と苦笑する。

「父からは『どうするか?』と言われました。昭和31年に結婚してますから、前年の30年のことだったと思います。父から『いいのか?』と言われたので、『はい』と答えたんだと思います」

三原がいつメモをしたのか日時は不明だが、万年筆を用いた達筆な字体で「結婚について」という書き出しで、自身の結婚観をつづっている。

「我々のプレーは、我々の日常生活につながっていなければならない。結婚生活を犠牲にしなければ、立派なプロ野球人が生まれないという事であるなら、プロ野球の力強い発展はない。今日の仕事を力付けて呉れる妻の声援が、如何に尊いものであるかは、論議の余地とてもない。仕事に対する情熱が、妻の理解ある声援に保つものである事も言うまでもない。(中略)立派な家庭生活を築いたのなら、一方において立派なプレーヤーであってほしい。もしそれが両立しないというならば、プロ野球の発展はないと私は思ふ」(原文まま)

56年日本シリーズ初戦の先発に立てたのは、公式戦で2勝3敗の川崎徳次。巨人監督の水原茂は正攻法でエース大友工をつぎ込んだ。結果は0-4の完敗だが、三原にしてみれば想定内だった。水原が初戦必勝をもくろんだのに対して、三原は「偶数回戦」にウエートを置いたのだ。

短期決戦における勝負の基本は先手必勝だが、三原は先勝した場合、連勝しなければ、先手をとった意味を失ってしまうという考えだった。

第2戦は稲尾和久を先発させ、5回2死の場面で2番手にスイッチし、6-3で逃げ切った。3、4戦もとって、5戦目は敗戦。3勝2敗で迎えた第6戦は稲尾が完投し、日本一を決めた。偶数回戦に固執した三原は、そのもくろみ通りに2、4、6戦を勝った。

このシリーズで全試合に登板した稲尾だが、もう1人、キーになった投手がいた。第2戦に稲尾をリリーフするなど好投した島原幸雄だ。上手投げで2軍にくすぶった人材を発掘し、アンダースローに改良したのは“三原魔術”だった。

戦前は巨人優位の形勢だったが、それを覆した。古巣に勝った感激はひとしお、三原メモも涙でにじんだに違いなかった。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

連載「監督」まとめはこちら>>