日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

   ◇   ◇   ◇

1984年(昭59)は週刊文春が「疑惑の銃弾」を掲載し、米ロサンゼルスで保険金殺人の「ロス疑惑」に火が付いた。また兵庫・西宮市内で江崎勝久社長の誘拐拉致で起きたグリコ・森永事件は、犯人グループからマスコミに手紙が送られて関西は騒然とした。

その年の10月21日夜、岡山市内の密会で監督を要請された吉田義男は、西本幸雄から「投手出身よりも広い視野がある」と推薦された形だった。それでも吉田自身は「積極的に受け入れる気持ちはなかった」と語った。

「当時はよくゴルフ場まで新聞記者に追いかけられて取材を受けましたわ。でもわたしは村山がやると思ってましたから、記者にも村山でええんと違うかなと答えていたように思いますね」

70年から74年まで関西テレビの解説者を務めた。その間、西宮・門戸厄神でステーキハウス「モンド」を経営。設計・施工は大林組が請け負った。監督として75年から3シーズン采配を振るい、83年と84年は同テレビ局に復帰し、西本と仕事で一緒になった。

吉田は70年に阪急監督だった西本から内野コーチの誘いを受けた。西本が「モンド」に来店して直接オファーされたが、その場で断りを入れる。阪神との交渉は自分を推薦してくれている西本に義理を感じていたのも事実だ。また西本が近鉄を率いた際もコーチを打診された。

阪神電鉄・西梅田開発室長の三好一彦は、ある人物を伴って岡山ロイヤルホテルの一室で吉田を口説いた。吉田は「妻(篤子)からもう監督はやめてほしいと言われていたし、自分もその気でした」と家族の事情も絡んでためらったが、最終的に決断する。

もう1人の候補に挙がったピッチャー出身の村山実が有力視される報道が先行している状況下で、ひそかに吉田の監督就任は固まったのだ。阪神球団は週明けに行われる電鉄本社の役員会を経て、正式誕生の運びまでこぎつけたわけだ。

交渉の場で吉田が訴えたのは「三好さん、わたしについてくれますか? それならやらせてもらいます」と受諾の条件ともいえる要求だった。三好は「監督という職業はつくづく孤独だと思う。わたしは『サイドから全面的にバックアップします』と答えました」と振り返った。この約束が吉田監督誕生の決め手になった。

今でも吉田は「ずっとバックアップしていただき、あれから三好さんとの付き合いは続いています」と恩義を感じている。三好もまた吉田を「同志」と絆を強調。生みの苦しみを経た吉田阪神が、ついに産声を上げる瞬間を迎えた。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

連載「監督」まとめはこちら>>