日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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阪神は新監督に吉田義男を招き入れ、同時に球団フロントを大刷新した。最近で監督交代を機に球団トップのバックアップ態勢が変わったのは、和田豊から金本知憲になった15年(平27)オフ、金本につないだ社長の南信男が退任し、四藤慶一郎が就任したケースがある。

オーナー退任会見の席上、田中隆造が「オーナーの5年間で1度も優勝争いにかかわることなく、ファンの方には申し訳ない」とわびる隣で、阪神電鉄専務で球団社長だった小津正次郎は「田中オーナーを胴上げできず、ご期待に添えず残念です」と語った。

1978年(昭53)から社長だった小津は、球団史に深くかかわったトップの1人といえる。初の外国人監督ブレイザーを招請、田淵放出、江川問題、コーチ暴行事件に対応し、第2練習場「浜田球場」、甲子園三塁側の室内練習場を完成させた。

“オズの魔法使い”と称された男は「吉田新監督がいう基礎作りが今のチームに一番大事なこと。そのために全員が1つでなければならない。オール阪神、OBも含め足の引っ張り合いをなくし、お互いが力を合わせてやっていただきたい」と言い残して去った。

オーナー代行からオーナーになった久万俊二郎は「阪神グループにとってタイガースは阪神百貨店と比肩すべき重要なもの。球団をもり立てていくのは電鉄社員としては当然で、原点に戻り、立派な重厚なチームに再建しなければならない」と語った。

監督の成功にフロントの力は欠かせない。ドラフトに若手育成、トレード、外国人補強など、チーム編成は球団主導で行われるべきだろう。監督を引き受ける吉田が、本社からの使者になった西梅田開発室長の三好一彦に協力を求めたのには伏線があった。

1回目の監督になった吉田は、選手の年俸が抑えられていることで、大ざっぱに思えた査定の見直しをフロントに要望した。特に「チームプレー」につながるパフォーマンスに評価を求めたが、結果的に聞き入れられなかったから不信感が増長した。

球団には右方向への進塁打、リリーフの役割は、なかなか評価してもらえなかった。84年オフ、2回目の監督を受諾した吉田は、本社側の三好からバックアップの約束をとりつけ、選手の待遇改善を訴えながら戦意をかき立てようとした。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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