日刊スポーツの大型連載「監督」の第7弾は阪神球団史上、唯一の日本一監督、吉田義男氏(88=日刊スポーツ客員評論家)編をお届けします。伝説として語り継がれる1985年(昭60)のリーグ優勝、日本一の背景には何があったのか。3度の監督を経験するなど、阪神の生き字引的な存在の“虎のビッグボス”が真実を語り尽くします。

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プロ野球監督が安穏としていられるのは、あれこれとチーム構想を立てているキャンプ、オープン戦までという。いくら人気を集めても、負ければ“奈落”に落ちるのは勝負の常だ。

阪神監督に就任した吉田には各界から講演依頼が相次いだ。「チームワークと企業経営」というテーマでは「トラブルの多いチームの監督がチームワークの話をするのは説得力に欠けますわ」といって笑わせた。

チームワークに重点を置き、自分の手足になるコーチ陣に求めたのは「一蓮托生(いちれんたくしょう)」の精神だ。リーダーを中心に、1つになって戦い抜いてくれる人材に声を掛けた。

1984年(昭59)10月23日に就任発表が行われた吉田がいの一番に指名したのは一枝修平。現役時代の成績は目立たないが、計3度の監督で、吉田は3度とも参謀役を託した。

「わずかな時間でスタッフを固めないといけなかったので苦労しました。一枝は1度目の監督のときもコーチをやってもらっていて信頼していた。わりと厳しいし、選手にも近かった」

生粋の大阪人。一枝は繊細なヘッドワークで知られた指導者だ。上宮から明大を経てノンプロの河合楽器入り。現役時代は中日、近鉄、阪神でいぶし銀の働きをみせ、13シーズンのコーチ業で評価が高まった。

明大の後輩で、中日監督の星野仙一も「修平さん」と慕ってヘッドコーチに起用した。中日、阪神優勝の陰に一枝の手腕があったとすれば、トップを支え、社員を束ねる“番頭”は業績を左右するということだろう。

吉田は阪神で捕手だった“ヒゲ辻”こと、辻佳紀から一枝を紹介されている。辻は明大の同期生で、主将だったから縁があった。一枝は「阪神で現役を終えたとき、吉田さんに現場に誘われたのはうれしかったし、魅力だった」という。

「選手にノックをするだけがコーチではない。コーチというのは、選手に結果を出させて評価される職業だと思っています」

吉田と一枝は“懐刀”で、ツーカーの間柄だ。マスコミ嫌いだった吉田に代わり、スポークスマン役も買って出たから助けられた。

後述するが、85年の日本シリーズ直前に合宿を提案したのは、守備走塁コーチの一枝で、西武を徹底的に分析し、勝負どころではスクイズ封じをやってのけた。コーチの力の大きさを示した日本一でもあった。【寺尾博和編集委員】(敬称略、つづく)

◆吉田義男(よしだ・よしお)1933年(昭8)7月26日、京都府生まれ。山城高-立命大を経て53年阪神入団。現役時代は好守好打の名遊撃手として活躍。俊敏な動きから「今牛若丸」の異名を取り、守備力はプロ野球史上最高と評される。69年限りで引退。通算2007試合、1864安打、350盗塁、打率2割6分7厘。現役時代は167センチ、56キロ。右投げ右打ち。背番号23は阪神の永久欠番。75~77年、85~87年、97~98年と3期にわたり阪神監督。2期目の85年に、チームを初の日本一に導いた。89年から95年まで仏ナショナルチームの監督に就任。00年から日刊スポーツ客員評論家。92年殿堂入り。

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