大型連載「監督」の第8弾は、近鉄、オリックスを優勝に導いた仰木彬氏(05年12月逝去)をお届けします。

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かつてはスター選手が監督の座に就くのが慣例だった。最近は名選手でなくても、2軍監督、コーチなど下積みを経験した「実務型」が昇格するケースも目立っている。

仰木は西鉄、近鉄で約20年間ものコーチ業を経て1軍監督に昇格。「中西監督、仰木コーチ」の立場は「仰木監督、中西コーチ」に転じた。そして、このコンビでリーグ優勝、日本一を勝ちとった。

中西太は「監督をいかに手助けするかがコーチの仕事。おれと仰木のような(特に密接した)関係はないだろうね。とにかく自分の近くに座っといてくださいと言われた」と振り返った。

1987年(昭62)オフ、岡本伊三美の後任として近鉄監督に就任。仰木と大エースだった鈴木啓示の2人が有力候補に挙がった。「仰木監督」をスクープしたのは、日刊スポーツの井坂善行だった。

本社筋には、通算317勝(238敗2セーブ)で功労者の鈴木を推す声が多数を占め、仰木は少数派だった。井坂らは土壇場で「鈴木」が消えたことをつかんだ渾身(こんしん)の特ダネだった。

ただ世間に仰木の名が知れ渡って、名監督のイメージが色濃くなったのは、勝ったからではない。球史に残る最終戦にもつれこんだ名勝負「10・19」を演じ、潔く、劇的に散ったからだった。

88年10月19日。ロッテとのダブルヘッダーに連勝すれば近鉄優勝だった。しかし負けか引き分けの場合、西武ライオンズの優勝が決まる。すでに名将森祇晶率いる西武は全日程を終了していた。

第1戦は8回に村上隆行の同点二塁打、9回2死から梨田昌孝が決勝打を放つ。だがシーズン最終戦の第2試合は8回に1点リードしたが、その裏、同点本塁打を浴び、延長10回引き分けに終わった。

仰木マジックの“傑作品”は、ラルフ・ブライアントを覚醒させたことだろう。88年にリチャード・デービスが大麻不法所持で逮捕されて退団。中日でくすぶっていたブライアント獲得に成功する。

6月21日。仰木と中西はウエスタン・リーグ阪急-中日戦(西宮)を視察し、中日2軍でプレーしていたブライアントを見初めた。粗削りで三振も多かったが、長打力は魅力で、2人はこの未完の外国人に賭けた。

B砲は日本球界で育てられた典型といえる。88年シーズン途中に近鉄入団し、74試合で34本塁打。89年は49本塁打でタイトル獲得。西武戦で4打数連続本塁打を放ってリーグ優勝に貢献した。

この間、オーバースイングで三振を重ねるブライアントに、中西が細いバットでティー打撃をさせるなど直接指導を続けた成果だった。

「力はあるんだけど当たらないし、毎日三振して涙を流すこともあった。でも『三振はいいんだ』と言い聞かせて教えたつもりだ」

主に「3番」で起用されたブライアントは「三振王」が「本塁打王」にすり替わった。名監督と名コーチの手腕によって異国で“花”を咲かせるのだった。【寺尾博和編集委員】

(敬称略、つづく)

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