選択肢は1つしかなかった。「辞める」だけだった。楽天星野仙一前監督(67、現シニアアドバイザー)が2カ月の休養から現場に復帰したのは7月25日。ほどなくして、今季限りの辞任を決めた。「あれだけ休んだんだから、ユニホームを脱ごうと思った」。残り試合を全うするため、辞意を伝えたのはごく身近な人に限った。三木谷オーナーに伝えたのも9月に入ってから。強い慰留を受けたが、決断を変えなかった。

 日本一から、わずか1年後の出来事だ。惜しむ声は多かったが、それでも辞めた。理由は、体力が限界だったから。文章にすれば、それだけの話になる。ただ、裏には、通算17年間にわたった監督業の信念があった。「出処進退は自分で決める」。その判断基準が「体力」だった。新たに3年契約を結んだ今季開幕前、こう言った。

 「俺は体力的に限界だと思ったら、いつでも辞められるようにしている。精神的には、かなり人より強いと思うけど、体力が伴わなければ精神を病んでくる。精神が伴わなければ、選手に影響してくる。チームに影響してくる。そこが、俺が去る時」

 5月26日から休養したが、その直前は「負けても、どうでもよくなっていた。こりゃダメだと思った」というほど、腰の痛みに悩まされていた。体力の悪化→精神の悪化→選手、チームへの悪影響という、負のスパイラルに落ちかけていた。6月の手術でかなり改善し、1時間近いウオーキングも出来るようになった。とはいえ、万一、腰痛が再発すれば、また長期離脱の恐れはある。自ら去るしかなかった。

 信念に従い決断したが、過程では無力感にも襲われていた。都内の病院に入院していた6月前半。禁煙の病棟を抜けだし、近くの公園でたばこの煙をくゆらすのが日課だった。のどかすぎた。勝った、負けたの現場とのギャップは大きかった。「早く戻って来て」というファンの声はうれしかったが、「こんなことではいけないな」と感じていた。リハビリ中には、フロント主導で監督代行やコーチが入れ替わった。反対はしなかった。できなかった。自分が不在なために起きた人事とも言えたからだ。「球団はどこに向かっているのか」という質問に「もう、俺には分からん」と力なく漏らすしかなかった。

 だが、いったん決断した後は、辞めるまで信念を貫いた。9月上旬。「続投」「辞任」の両極の報道が流れた。騒がしい周囲を受け流し、口にする話題の多くは来季構想だった。ドラフト、外国人補強、育成法。フロント改革にも及んだ。そんな姿に「来年も、やる気満々だ」と言う球団関係者は少なくなかった。誤解だった。「来年の話をしたから来年もやるとか、来年の話をしなくなったから辞めるとかじゃない。チームを引き受けている以上、常に2、3年先を見ないといけない」。心の底の「辞める」の答えは伏せ、そう説明した。

 後悔はある。「いっぱい、やり残したことがある。後ろ髪を引かれる思い」と言った。ただ、辞めたからできる話もある。11月28日、大阪のホテルにいた。阪神時代からの支援者とのパーティーでマイクを握った。「去年、優勝したあの時にユニホームを脱げば良かったと、つくづく思いました」。日本一監督のまま辞めれば良かったのに、もう1年やったばっかりに最下位監督で終わった。決断が遅かったというジョークに、なじみで埋まった会場はドッと沸いた。決断の後には、いつもの星野さんらしい笑いがあった。

 優勝監督が去り、楽天は新たなスタートを迎える。その中で松井稼はある決断をした。チームのために、ベテランとして。(つづきは日刊スポーツ紙面で連載中)【古川真弥】