「怪物」あらため「Monster」の底はどこにあるのか。

 WBO世界スーパーフライ級王者、井上尚弥(24=大橋)。

 6戦目での世界王座獲得、8戦目での2階級制覇(当時史上最速)、日本の枠にとどまらない金字塔を打ち立ててきたが、今回は恐ろしさすらも感じた。

 日本人ボクサーでは初と言っていい、本場米国からのオファーを受けての海外進出。9日(10日)にカリフォルニア州カーソンのスタブハブ・センターで開催された興行「Superfly」のセミファイナルでのV6戦で同級7位アントニオ・ニエベス(30=米国)と相まみえたが、結果は6回終了時TKO勝ち。5回に左ボディーでダウンを奪い、結末は6回を終えてニエベスが棄権したためだった。攻める意志の欠如は、おそらく初回にストレートのような左ジャブを受けたことが原因。そのあまりの威力に面食らい、予想とのギャップに「倒されないこと」に心理がシフトせざるを得なかったからだろう。「容赦なかった」と敗戦後に語ったとおり、グローブを体にぴったりと貼り付けて極端な防御姿勢を作っても、わずかなすきに連打を打ち込んでくる。怪物の恐怖におびえた30歳の銀行マンが、口座開設の仕事に異常をきたすような倒され方をされる前に、ボクサーの仕事を切り上げたのも無理はない。それほど実力差があった。戦意喪失、相手の心を折ってしまうほどの明瞭で残酷な実力差を見せつける“楽勝”だった。

 これまで日本人が米国での世界戦でKO勝ちしたのは2人しかいなかった。27回の挑戦があり、その確率は7・4%。極東の島国と本場との大きな隔たりを感じさせる数字だったが、井上の勝ちっぷりを見ると、そんな大きな隔たりがあったとはとても思えない。見る者の感覚をまひさせられるような勝利だった。海外での防衛戦という視点でも、日本人史上7人目、9例目。史上かつてないほどの圧倒劇と言っても過言ではないだろう。

 見る者の固定観念を軽やかに覆してしまう米国初参戦。11日に成田空港に帰国した際に聞いたエピソードでも、驚かされた。3日に渡米した際にベルトを日本に忘れてきたことを試合前に明かしていたが、なんと試合日にも宿泊していたコンドミニアムに忘れ、会場で気付いた関係者をあぜんとさせたという。そんなリング外でのおとぼけは、井上の常。帯同した大橋会長は「尚弥は本当に日本にいるときと変わらなかった。私たちのほうが浮足立ってしまいましたね」と、気負いや緊張とは無縁なその強心臓ぶりで、「モンスター」のすごみを証言した。

 そんな遠征だったが、今回唯一足りなかったものは、対戦相手の強さ、だろう。1つ上のバンタム級を主戦場にしてきたアマチュア全米2位の実績を持つニエベスは、好選手であったが、好敵手ではなかった。一方的な展開過ぎたことで、「イノウエ」のすごさを100%本場へ伝えられたかというと、本人も曇り顔。実際、試合後の現地メディアの報道を見ると、絶賛はあれど、そこに書き手の高揚感を感じるような記事が少なかった。評価は確実に手に入れた。ただ、心をわしづかみにしてしまうような試合ではなかった。それが「本場」の雰囲気かなと思う。

 単純に強すぎた。豪快なKO劇をみせる前に、相手が白旗を挙げてしまう。似たような状況をここ3試合続けているのは、井上の8戦という最速記録を越える7戦目での2階級制覇王者となった現WBO世界スーパーフェザー級王者ワシル・ロマチェンコ(ウクライナ)。同様に圧巻の力量差を見せつける形で、初防衛戦から3戦連続で相手の棄権を呼び込んでいる。そして、その強さにもかかわらず米国では絶対的な人気を誇ってはいない。

 理由はファンの求めるものが違うからだと思う。少なくとも対峙(たいじ)した2人のボクサーに顕著なスキルの差が見て取れるときには、勝って当たり前の心境は、興奮をもたらさない。7、8月と日本人ボクサーを追ってカリフォルニアの会場で感じた空気では、やはり打ち合い、拮抗(きっこう)した実力伯仲の両者が、紙一重のタイミングで拳を交える緊張感、それがダウンを奪う一撃で弾ける瞬間こそが、最上の熱をもたらす。それは世界王者であろうが、8回戦の試合であろうが、変わらなかった。

 いま、井上に求められるのは好敵手だ。どんなスポーツであれ、多くの関心を集めるのはライバル物語というのは世の常。絶対王者が君臨する世界において独り勝ちという状況は、勝利に予定調和の既視感がまとわりつく。人は1度見たもの、体験したことでは極度の興奮には到達しにくい。だからこそ、勝つか負けるか分からない、激しい打ち合いをできる、熱をもった戦いを繰り広げられる「相棒」がほしい。

 その時こそ、「モンスター」の底が見られるかもしれない。きっと本人もその時を待っているのではないか。これが伝説の始まりだとして、楽しみに待ちたい。【阿部健吾】