昭和の終わりに空前のプロレスブームを巻き起こしたのが、初代タイガーマスク(佐山サトル=61)だった。戦後の力道山に始まるプロレスの隆盛は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木の両雄時代を経て、タイガーマスク人気で極まったといえる。テレビ視聴率が毎回25%を超え、会場はどこも超満員。アニメ「タイガーマスク」から抜け出したヒーローは、アニメを超え、社会現象となった。

タイガーマスク時代の話を佐山に聞くと「実は、タイガーになることに抵抗があって、断っていたんですよ」と意外な言葉が返ってきた。75年7月に新日本プロレスに入門した佐山は、メキシコ修業を経て、英国でサミー・リーとして活躍。英国でも大人気で、ベルト挑戦を目前にしていた。

そんな佐山に、新日本から「もう1試合を決めたから。それを外すと、猪木の顔をつぶすことになる」と最後通告を受け帰国。81年4月23日に、蔵前国技館でダイナマイト・キッドとタイガーマスクの試合が行われた。4次元プロレス、4次元殺法と呼ばれたタイガーのプロレスは観客の度肝を抜き、これまでとは違う新しいスタイルとして、空前のブームを起こした。

試合会場や宿泊先のホテル、合宿所などタイガーの行き先はファンであふれた。新日本は素顔がばれないよう徹底ガードした。そんな騒動の中、佐山は「人気はすごかったですけど、素顔ではなくマスクをかぶっているので、それほど実感はなかったんですよ」と話す。実際、師匠アントニオ猪木の付け人を務めていたこともあり、猪木と同行する際は素顔でガード役を務め、誰からも気付かれることがなかったという。

アントニオ猪木にあこがれて、新日本に入った佐山は、猪木が進める格闘技路線に傾倒していた。道場では先輩の藤原喜明と総合格闘技まがいの練習を続けていた。実際猪木からは「お前は、格闘技路線の第1号にする」と約束されていた。しかし、メキシコ修業、英国遠征と、プロレスでの才能が評価され、思いとは違うところで、ヒーローになってしまった。「実際、26歳ぐらいでプロレスをやめて、20~30年かけて新しい格闘技をつくっていこうという思いがあった。ボクの中には(プロレスの)職人芸と格闘技の2つの自分がいたんです」。

見ただけで、ワザを自分のものとして使うことができる天性の運動能力。メキシコのホテルで、マットレスをはがして床に置き、サイドテーブルから練習して習得したサマーソルト。「猪木さんのすごいところが、ワザや動きがなくても勝負でお客さんを引きつけられるところ。それにワザが加わったのがタイガーマスク」と佐山は説明した。

タイガーマスクの活躍は、83年8月に、新日本に契約解除を通告し、引退を表明して突然、終わりを告げた。アニメの原作者梶原一騎の逮捕による改名問題浮上と、会社経営陣との対立が原因だった。タイガーマスク時代の2年4カ月。通算成績は155勝1敗9分け。

【桝田朗】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)