「その日」は突然、やってくる。あの日もそうだった。32年前の3月、春場所4日目。寺尾に敗れ初日から4連敗となった大関朝潮は、大阪市内の宿舎に戻ると「やめる、やめないではなく、とにかく5日目も取りたい」と私を含めた大勢の報道陣の前で語り、師匠の高砂親方(元小結富士錦)には「もう一番、精いっぱい取りたい」と伝え、翌5日目の出場を明言した。

だが、土俵上の相手に私情をあたえてはならない。本割で兄弟対決や同部屋対決がないのも、根源にはそんな理由がある。過去に「あと一番だけ取りたい」との願いを持ちながら、協会幹部からストップをかけられた大鵬の前例もある。案の定、それはご法度と本人か師匠か協会が判断したかは不明だが、翌5日目の朝、引退を表明した。

朝稽古もカラッとした表情で姿を見せ、宿舎から引退会見に向かう車に乗り込む際には、菅原洋一の名曲「今日でお別れ」を口ずさみ、100人近い報道陣を笑わせた。オチはまだある。その午前11時半から行うはずだった記者会見も、理事会の年寄山響襲名の承認が間に合わず、3時間半後に伸ばされた。周囲をハラハラドキドキさせる「大ちゃん劇場」も、いつもその後には笑いがあった。ただ、今回の引き際ばかりは、そうもいかなかった。

愛称は「大ちゃん」。年下の記者からそう呼ばれても、意に介することなく豪快に笑い合いながら、いつも和やかに会話が進んだ。10日付で日本相撲協会に退職願が受理された退職が決まった錦島親方、というよりやっぱり「朝潮」の方が相撲ファンにも愛着があっただろう。残念なことに、日本相撲協会が定めた新型コロナウイルスの感染対策ガイドラインに違反し、責任を取る形で退職となった。豪放磊落(らいらく)、細かいことは気にしない、嫌なことはあっても一晩寝たらコロッと忘れられる…。そんな性格がコロナ禍で災いしたのだろう。

ある意味、古き良き時代の生き残りだ。昨年の今ごろ、日本相撲協会で希望者全員に抗体検査を受けさせた。「希望者」というから錦島親方は「うちの部屋はいいです」と一度は断った。「そこを何とか…」という協会関係者の説得で受検すると「医療関係者の人は汗だくで検査してくれた。感謝しないとな」と、一度は拒否したことを忘れたように、ありがたそうに感謝していた。ある意味、行き当たりばったりの人-という関係者もいる。

日刊スポーツとの付き合いは、現役引退した89年からだから、足掛け33年になる。自分も現役最後の時代を取材し、評論家としての担当も6年前から始めた。歯に衣(きぬ)着せぬ物言い、それでいて情もあった語りに、パソコンのキーボードを打つ手もスムーズだった。「少しオーバーに表現してしまったかな」と思った時も「いや、俺が言ったままだ」と気にもしなかった親方が一度だけ「あれはないだろう」と言われたことがある。

ある、ふがいない現役大関を評論してもらった際、「過去にいた大関のイメージでは誰が当てはまりますか」と聞いたら「●●さんかな」と答えた。それを評論原稿にも書き、その歴代大関のしこ名が大きな見出しにも翌日の紙面で使われた。「なんか●●さんがダメな人だったみたいじゃないか、この見出しじゃ。そうじゃなく、この苦しみの様子が、俺が見た中では●●さんだったということなのにな」。基本的に年齢的な上下関係は大事にし、先輩後輩の関係も大切にする親方の、少しばかりの“お小言”だった。

基本的には、そんな情に厚い人柄だとは思う。今回、問題になった外食でも、定期的な40年以上の付き合いがあった先輩からのものが複数回あったと聞く。だが、それと自分の脇の甘さは別だ。十数年前の、まだ古き良き時代の相撲界なら黙認されたことも、今は時代が許してくれない。公益財団法人になり、ましてやこのコロナ禍である。統制や規律が厳しくなるのは当然で、そこは「枠にはまらない」性格の人にとっては窮屈であっても、そこはしばし、我慢しなければいけない時期なのだ。そこは百も承知のことで、ルール違反が指摘されると「俺がやめて丸く収まるなら」と、ためらいなく退職届に筆を走らせ、1日には提出した。受理されるまで10日以上の期間があったが、協会を去ることは、とうに腹をくくっていた。

退職届とともに錦島親方は、外出の際に付け人を同行させてしまったことの反省、部屋の円滑運営のために現高砂親方を部屋に住まわせ、部屋の3階にある自宅を引き払うことなども一筆、したためたそうだ。実は師匠交代の際、先代の住居がある場合は、師匠を譲り渡された親方が「通い」のまま部屋運営が続くケースが、これまでもあったと聞く。部屋としての実態がないのでは、ということも週刊誌報道などで見聞きする。師匠から若い弟子まで一つ屋根の下で寝食を共にするのが相撲部屋の根幹だろう。仮に、前述の実態が隠れているなら、今回の錦島親方の退職を、単なる一過性の事案にするのではなく、正常な姿にすることが協会に求められる。朝乃山の件を含め、相撲部屋とは何なのかが問われていると思う。【渡辺佳彦】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「大相撲裏話」)