和紙にしたためられた横綱推挙状と、真っさらな横綱を八角理事長(元横綱北勝海)から授けられた。24日、明治神宮で執り行われた横綱推挙状授与式と奉納土俵入り。名古屋場所後の理事会や伝達式で、既に第73代横綱照ノ富士(29=伊勢ケ浜)は誕生していたが、事実上、これが新横綱としての初仕事だった。

玉串をささげる、紋付き羽織はかまをまとった新横綱の背中が、日本相撲協会が配信する公式ユーチューブで大きく見えた。あの時とは違って…。そしてあの時、その背中に向かって記者として投げかけた言葉に、今更ながら恥じ入っている。

コロナ禍で現場取材がままならない中、暇に任せて過去の取材ノートをめくることが多い。その中で「あの時」の言葉が目に留まった。「大関…」は私の問い掛けの言葉、その下段に「もう大関じゃない」の短い言葉が、取材対象者のそれとしてしるされている。

取材ノートの表題は「19年大相撲春場所」とある。その初日の大割(取組表)が貼ってあるページに、その文言はしるされていた。大関から陥落後、途中休場と全休を続け西序二段48枚目まで番付を落とした照ノ富士の、再起をかけた287日ぶりの土俵。若野口をはたき込みで破り354日ぶりの勝ち名乗りを受けた照ノ富士を、ひとしきり支度部屋で取材した後、何とか本音を引き出そうと、支度部屋を出る間際まで背後に付いて行った。

鉄扉を開け支度部屋の外に出ようとした直前。「大関…」と声をかけた。そう言えば、気分よくニヤリとしながらきびすを返し、用意していた問い掛けに対する“本音”を引き出せると思った。「大関経験者として序二段の土俵に上がることに抵抗はなかったのか」という問いに対するアンサーだ。支度部屋での取材では、同様の質問に「いや、そこは気にしない」とサラリ答えていたが、葛藤はあったはずだ。復帰にあたり、肝とも言うべきその本音が知りたかった。

支度部屋では周囲に若い衆しかいない番付社会の厳しさから「照関」とも「大関」と呼び掛けるのもはばかられていた。幸いにも取材対象と1対1の状況が作られていた。「こうして大勢の囲み取材でなければ『大関』と呼び掛けても問題ないだろう」「『大関』の言葉にプライドを少しでもくすぐられてくれたら本音も引き出せるかもしれない」…。

そんな邪(よこしま)な気持ちも込められた問い掛けは、いとも簡単に吹き飛ばされた。それが冒頭の「もう大関じゃない」という照ノ富士本人の言葉。支度部屋で時折、関西弁を交えながら浮かべていた笑みなどそこにはなく、キリッと引き締まった、どちらかと言えば怒気を含んだトーンの返事。低音ではあったがその声は、今でも耳に残っている。俺は覚悟を持って再起の土俵に上がっているんだ-。丸めた背中と、腹の底から絞り出すような声に、そんな胸の内を感じる以外なかった。

大関から落ち、関取の座を失ってまで相撲を取るのか…。周囲に温かく復帰を見守る目があるのと同時に、プライドを持っていたら現役を続けられるのか、大関という地位はそんなもんじゃない…という声も、確かに耳に入っていた。それも全て受け入れて、照ノ富士は再起の道を決めたのだった。「プライド」を盾にすれば口を開いてくれるのでは…という、実に安易な発想に、穴があったら入りたい気持ちにさせられた。

その後、十両に復帰するまでの、全ての取組を見て本人を取材しながらでも、その気持ちは手に取るように分かった。あのヤンチャな、年が一回りも二回りも上の記者に対し弟弟子に投げかけるような言葉のキャッチボールや態度は、影を潜めた。照ノ富士の生来の奔放な性格であって、それはそれで少し寂しい気持ちもあったが、敬語で丁寧に言葉を返す態度に、文字どおり裸一貫、腹をくくって土俵に上がっている男の姿が見えた。

先月27日の伝達式で照ノ富士は、口上の一部でこう語った。「不動心を心掛け、横綱の品格、力量の向上に努めます」。かみ砕くと「横綱がどんな地位か、どんな生き方をするべきか」と自分に課した。あの序二段で再スタートを切ってからの“生き様”に、何のブレもない。2年半前に自分が投げかけた、邪(よこしま)な気持ちが入った言葉をわびるとともに、これから歩む横綱照ノ富士の相撲道にも期待をしたい。【渡辺佳彦】

奉納土俵入りで不知火型を披露する横綱照ノ富士。太刀持ち宝富士(代表撮影)
奉納土俵入りで不知火型を披露する横綱照ノ富士。太刀持ち宝富士(代表撮影)